top_rogo.gif (16396 bytes)

〈本の紹介〉 「拉致問題で歪む日本の民主主義」

飛礫覚悟した勇気ある実践

 日本社会の右傾化を何とか止めたいという強い気迫が、著者のエネルギュッシュな行動を支えてきた。 家永裁判を引き継いだ「横浜教科書訴訟」で国の検定の違法性を徹底的に追及して行動する学者としても知られる。1968年から28年間、筑波大学付属高校で地理や現代社会を教えていた。 

 この時代のことを本紙記者に語ったことがある。毎時間手製のプリントを配って、熱弁を振るう熱血教師は、しばらくしてある事実に気づかされる。

 「生徒たちのアジア観が、大人の持つ差別観をそのまま反映していることに非常に衝撃を受けた。朝鮮、中国、東南アジアに対する歪んだ差別の根源を生徒たちに気づかせなければ、戦前戦中、さらに戦後に通底する露骨な差別意識を克服し、アジアへの戦争責任に向き合うことはできないと思った」

 そう思うと行動は素早い。高嶋さんは、夏休みなどを利用して、東南アジアを約20年の間に60回以上も訪れ、教科書に書かれていない日本の侵略の実態を調べた。日本人の顔など二度と見たくないと思っている被害者たちとも心を通わせ、日本軍の残虐さと戦争の悲惨さを訴える生々しい証言を掘りおこしたのである。

 何事にも徹底的に向き合い格闘する著者が、拉致事件以降の日本社会の歪みにメスを入れたのが本書である。副題が「石を投げるなら私に投げよ」とある通り、「飛礫の襲来も覚悟して」文字通り体を張った勇気ある実践の記録である。著者は冒頭でこう述べている。

 「在日朝鮮、韓国の人たちが求めているのは、いざとなったら、理不尽な攻撃をしかけてくる者と在日の人たちの間に割って入り、盾となって在日の人々に危機が及ぶのを防ぐ人々の出現ではないか」

 日本のメディアの拉致報道は凄まじい。嫌悪と嘲笑が入り混じり、北のイメージを悪魔、邪悪、狂暴と描くだけで、朝鮮問題の本質や日本と朝鮮半島の歴史的な視点は、バッサリ抜け落ちている。かつて侵略戦争の時、軍部に追従し、自ら進んで戦争を賛美していった恥ずべき習性は、全く変わっていない。本書はそうした日本のメディアの底なしの堕落、根腐れの醜態を徹底的に追及してやまない。

 実質的な経済制裁となっている日本政府の北への食糧援助の停止措置についても、著者はこう指摘する。

 「場合によっては数百万人の餓死者が出てもかまわないと、日本社会の六割以上の人々が考えていることになる。そうした悪魔のような心が、いつから日本では人々の心を支配するようになったのだろうか」

 日本社会には拉致問題以降、「朝鮮人は加害者で悪玉、日本人は被害者で善意の市民」という二元論的思考がまん延しつつある。同時に自分たちだけに都合のいい「二重基準」が「正義」や「自由主義」の名のもとに何の制約も受けずに大声で語られる「大衆(民族)意識」社会が出現した。そうした状況を増幅させたマスコミの責任が大きいと著者は強く主張する。

 エモーショナルな拉致報道によって、ヒステリックな言論が横行する日本社会。そうした偏狭な「日本人意識」から抜け出すためにも、著者は、歴史と現実を踏まえた言論の力によって、この状況に風穴を開けることを自らに科した。

 「どうやってアジアの隣人と平和と平等の関係をつくりだすのか?」「勇気」はどう使うべきか?

 「この事態を黙って、見過ごすことは、未来の可能性を自ら手放すことだ!」と言う著者の実践とメッセージは、読者の胸を熱く揺さぶるだろう。(高嶋伸欣著、TEL 03・3947・1021)(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2006.7.3]