〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜D〉 成均館 |
優れた建築技術残す歴史遺産 世界遺産に推薦された開城成均館とは何であろうか。どのような歴史的性格の建物であり、いつ、どのようにして建てられたのであろうか。 このような問いに従いながら、成均館を語り、その歴史を探ることは、高麗の歴史と文化、思想や道徳、学問と教育の在り方を問うことでもある。 成均館は、高麗時代の初期に建てられたが、朝鮮王朝の時代に改築された教育機関である。高麗第26代の忠宣王(1308〜1313)の時に国学を成均館と改名したのが始まりである。第31代の恭愍王の時に国子監と呼ばれたが、すぐ成均館にもどり、朝鮮王朝の1894年の甲午改革に至るまで朝鮮における最高教育機関であった。 儒教の研究
成均館は開城市の名峰、松嶽山の東側山麓の松林がゆるやかに広がるところに建てられた。開城市富山洞である。高麗時代の初期の高麗王宮の別宮として11世紀に建立された大明宮という宮殿であったが、その後、外国からの賓客が宿泊する、順天館という宿所となった。また、崇文館という儒教経典に関する実務を司る役所としても使われた。 この役所が儒教の研究と教育にいかに重要な位置を占めていたかは、高麗時代末期の儒学者として世に名高い李穡が責任者になっていたことでもわかる。1367年に成均館大司成となった李穡は、著名な鄭夢周、金九容と共に、高麗末期の代表的な儒学者である。当代屈指のこれらの儒学者たちが成均館において儒学を教えたのである。 李穡は1328年に生まれ、幼い頃から聡明であったと伝えられている。14歳の時に成均館の試験に合格した秀才であった。中国を制覇したモンゴル族の国である元に派遣された父に従って元に赴いた。穡は、元の国士監において、3年間留学して帰国した。 穡は1352年、郷試の試験に合格して、書状官に任命されて再度元に入った。穡は帰国して、内書舎人という役職に就き国政に参与した。成均館大司成として、成均館明倫堂において学問を講義し、論じた李穡は1396年に没した。68歳であった。 開城成均館は、大成殿を中心に、北側区域と明倫堂を中心にした南側区域をはじめとする20余棟の建物から成っている。成均館は、高麗時代の国家的な教育機関としての様相を十分にうかがわせる建物であり、当時の教育制度と、優れた建築技術を示してくれる歴史遺産である。本来の成均館の建物は、1592年から始まった豊臣秀吉の朝鮮侵略による火災によって焼失した。今日ある建物は、1602年に再建されたものである。 現在は博物館
開城成均館は現在、高麗博物館として公開されている。成均館の東側の第一陳列室には、高麗国家の成立とその発展の歴史を示す遺物が陳列されている。 高麗時代の遺跡分布図と14世紀末に作成された古地図が掲げられており、満月台で発掘された様々な文様の煉瓦が陳列されている。またここでは、高麗時代の農業発展を示す、燃焼した米穀類や沸日寺五重塔から出土した絹や紙、ガラス瓶、玉類が置かれている。また、金銅工芸品と玉製工芸品も陳列しており、996年から使用された金属貨幣や、高麗の人々が戦時に用いた鉄製の甲冑、鉄製弓矢なども見られる。 博物館の大成殿に置かれた第二陳列室には、高麗時期の科学技術を示す文化財が展示されている。高麗の人々が世界に先んじて発明した、金属活字と仏教の経典である大蔵経の板木や、377年、清州の興徳寺において金属活字で印刷された「直指心経」という本も展示されている。ここではまた、高麗時代に研究、観察されてきた太陽の黒点観察についての「高麗史」天文志の記録や天文図が置かれている。
世界的によく知られているのは、陶磁器史上、輝かしい位置を占める10世紀制作の五葉文様の青磁器である平鉢、沸日寺五重石塔から発掘された青磁器の壺、青磁器全盛時代に製作された青磁器の湯沸かし器などの傑作であるが、これらが時期別に陳列されているので、参観者はそれらがどのように変わっていったのかを知ることができる。 さらに目を見張るのは、博物館の野外に展示されている高麗時代の見事な造形美を示す石塔、碑石、石燈、浮屠、石沸などである。これはまさしく高麗文化の宝物殿である。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天) [朝鮮新報 2006.7.5] |