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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−11〉 事業家 白善行

 白善行は、苦労して築いた財を惜しむことなく社会のために喜捨し、奇特な人として尊敬された女性である。

 彼女は、京畿道水原の貧しい家庭に生まれ、幼いとき平壌の中城に移り住むが、7歳の時、父、白持繧失う。そして、14歳でやはり貧しい家庭の安裁Uと結婚したものの、19歳で寡婦となってしまう。

金儲け

 夫を亡くした彼女は、その悲しみを埋めるかのように、がむしゃらに働き財を築いていく。最初に始めたのが野菜の商売で庭の隅を耕し野菜を植えた。育てた野菜は市場に出すと必ずお金になった。少し貯めたお金で豚を飼い、蚕も飼って機を織った。

 朝から晩まで商売に精を出す彼女に陰口をたたく人もいた。

 「ふん、若い後家さんが老けていくのも悔しかろうに化粧もしないで何の楽しみで生きているのかね?」「いつも機織りばかりして、あれじゃ再婚もできないよ」「一生働いて死ぬつもりらしいや」など、いずれにせよ若い女がお金に目がくらんでいるとか、死んで墓までお金を持っていくつもりなのかと、悪口が絶えなかった。だが彼女はそんな雑音には耳を傾けなかった。

 歳月は流れ、ある程度金を貯めた彼女は、平壌郊外にある農地を買い入れ、小作地として貸し出した。そして50歳になる頃には、「富者寡婦」として知られるようになる。

平壌屈指の金持ちに

 そんなある日のことである。平壌江東郡晩達面勝湖里にある広い土地を買ってはどうかとあるブローカーがやってきた。彼女は一大決心をし、これを買い入れる。今でいう不動産投資である。

 しかし坪当り30銭で買った土地は、実は3銭にもならない荒地であった。

 人たちはそれ見ろと騒ぎ立てた。これまでの苦労が水の泡になってしまうのであろうか。

 ところが思いがけないことが起きた。突然その土地を買いたいと言う日本人が現れたのである。彼は日本の大きなセメント会社の一つである小野田セメント会社の代理人で、彼女の持つ一帯にセメント原料となる良質な石灰岩があることを確認、そこに大規模のセメント工場を建てるのだと言う。荒地は一瞬にして100倍以上、坪当り30円にハネ上がった。

 こうして彼女は、勤倹節約と幸運によって60歳の頃には屈指の資産家となった。少しの財産は個人のために使うもの。だけど多くの財産は社会のために使われてこそ価値があるもの−これは白善行の生活信条であった。

価値ある使い方

 彼女はまず、雨が降ると水に浸かって渡れない「ソルメ橋」(大同郡古平面宋山里)を石橋にするため喜捨した。この橋は夫の墓参りの際に使う橋でもあった。竣工した橋を人々は最初「白寡婦橋」と呼んだ。でも寡婦橋とはどこか卑しい。彼女は世の中を良くする善行のためにお金を使う人だ。そうだ、白善行と呼ぼう。こうして「白寡婦橋」は「白善行橋」と改められた。

 1919年3.1独立運動後、彼女は一生をかけて貯めた全財産を社会のために喜捨する決意をする。そしてまず、平壌市内にある光成学校、彰徳小学校、崇實女学校など各級の私立学校に運営補助金を与え、民族教育の発展をはかった。

 また民族運動家の゙晩植、教会長老の呉胤善を援助した。゙晩植、呉胤善は、平壌に朝鮮人が使える「ウリ(われらの)公会堂」を造りたいと申し出てきた。当時平壌には府立公会堂が一つあったが、それは日本人専用のようなものだった。

 彼女は、米1かます5〜6円の当時の金で2千8百円の大金を喜捨し自ら理事長となり、公会堂建設のための財団法人を作り広く募金も集めた。

 1929年5月7日、大同門のすぐ後ろに純石造の3階建て公会堂が見事完成した。1階に小講堂と集会場、2階に1200席の大講堂、3階に図書館を備えた「公会堂−白善行記念館」は、朝鮮人のための「ウリ公会堂」として親しまれ、民族文化の発展に貢献した。

 彼女は、自分の事業を最後まで誠心誠意助けてくれた崔敬濂に全財産を譲りこの世を去った。告別式は、9日間も続く国葬級の社会葬として挙行されたという。

 長い歳月を経た今でも、平壌の人で彼女の名前を知らない人はいない。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

 白善行(1848〜1933)。京畿道水原で生まれ、幼いころ平壌に移り住む。1861年に結婚したが、5年後の1866年に夫と死別。その後、多様な事業で財を築き、教育を始め「公会堂−白善行記念館」を建設するなどさまざまな慈善事業のために尽くした。

[朝鮮新報 2006.7.10]