引き裂かれた姉弟、45年ぶりの再会 |
90歳と80歳、目に見えない38度線超えて
このたび、5月の連休にあった総聯大阪府本部の短期祖国訪問団に参加して、父と姉と私の3人で祖国を訪れた。私は2度目の訪問だが、父と姉は初めてだった。 私にはかねてからぜひとも父をウリナラに連れて行きたいとの願いがあった。父は日本では親兄弟と離れ一人であった。南にいたその親兄弟も早くに亡くなり、今は北に帰った姉だけが健在で、日本にいる弟に死ぬ前に会いたいと待っていたからだ。父は80歳、コモは90歳、実に45年ぶりの再会が実現した。 この団に同行した日本の新聞記者に、なぜ今まで会いに行かなかったのかと聞かれた。行かなかったのではない、行けなかったのである。日本人には到底理解しがたい、眼には見えない38度線が再会の道を長い間阻んできた。 父は戦前17歳で日本に渡って来たが、植民地にされた朝鮮の地で、その当時誰もがそうであったように、幼い頃からひもじさと辛い労働の日々を送った。じゃがいもを何百個も指が痛くなるまで剥いたり、重い水桶を運んだり、裸足で何キロも歩いたり、聞くたびに胸が痛んだ。成人後、目の前で畑や民家から男女が無理矢理トラックに乗せられ連れて行かれるのを見て、連行されるならその前に自分から行こうと、日本に渡って来た。
日本の敗戦直前には、沖縄に行けと言われ、行けば死ぬしかないと逃げ出したそうだ。日本が敗戦を迎えたとき、「日本が戦争に負けたのは、朝鮮人が協力しなかったからだ。朝鮮人を殺せ」との噂に驚いた。一緒にいた兄家族は危ないと南に帰った。父も帰るつもりだったが、またあのひもじい思いはしたくないと、汽車から飛び降りたという。姉家族は南に身寄りもいないと、帰国事業が始まるとすぐ北に帰った。 こうして父は親兄弟と離れ離れになり、日本に一人残された。時がたち親兄弟が亡くなったあと、南に行き墓参りや法事に参加することで、両親の死に目にも会えなかった寂しさを慰めていた。 当時南は軍事政権下で父は総聯の銀行の理事をしていたせいで危ない目にも遭い、そのときの経験から南にたびたび行っている自分が北に行っても大丈夫なのか、また、北に行けば次は南に墓参りに行けなくなるのではとの危惧で今まで行けなかったのである。 もうひとつ行けない理由があった。それは「姉に会えば、帰る時一緒に姉も連れて帰りたくなる、しかし連れて帰れない、それが辛い」。その言葉を聞いた時、38度線が、日帝が引き裂いた無残な歳月が見えてきた。
しかし姉に会いに行くと決心してからは、父は一連の北バッシングの報道に不安を覚えながらも、「真っ白になっている姉の髪を自分で染めてやるんだ」と、いそいそと毛染めを買っていた。出発の日父は始終笑顔であった。 平壌には夜遅く着き、翌日コモの住む黄海北道に向かった。父は初めて見る北の風景を食い入るように眺めていた。休日で人通りは少なく、ポプラの木や赤土が目についた。 約3時間足らず車に揺られようやく村に入った時、部屋で待っているとばかり思っていたコモが、なんとチョゴリを着て外で待ち構えていたのである。父が車から降りるやいなや、コモや家族が取り囲みもみくちゃになった。照れ屋な父はあまりの歓迎に少々うろたえていたが、やっと夢にまで見た姉との再会を果たし、その後2人はずっと一緒に座り、帰るその日まで、遠い記憶を蘇らせながら語りあっていた。 昔やんちゃだった父は姉にいろいろと迷惑をかけたが、姉は優しく世話をしてくれたという。甥が父のために朝3時頃起きて遠い湖で獲ってきた鯉料理や、山菜の数々、晩は孫たちがギターを片手にさながら歌合戦のように歓迎の歌や踊りを披露してくれ、心のこもったもてなしに楽しいひと時を過ごした。 翌日はこれも父の願いであったコモアジェの墓参りに行った。小高い丘にある墓の下であいさつし、父はこれで心残りはないと満足げであった。 その後はコモや甥たちと平壌に行き、また一緒に観光を楽しんだ。足が悪く長く歩けない父にとっては強行軍であったが、何よりも姉との再会を果たし、また姉が元気でいてくれたことを目で確かめられた有意義な5日間だった。 コモはもう弟に会えたからいつ死んでもいいと言っていたのが、帰る時には、また弟に会いたいから長生きすると語った。 父は最後の晩、食事の席で自作の歌を披露した。日本でお酒を飲み郷愁にかられた時必ず出る歌だ。「38度線を誰が引いたのか、夢よ、私を姉の元へ届けておくれ」。照れながら歌う父の想い、それは南、北、日本と今も引き裂かれている朝鮮民族と在日同胞みなの想いだ。 私たち2世には計り知れないその深い想いに、決して分断をこれ以上引き伸ばしてはならない、そして統一を阻む輩に屈してはならない、父のように会いたくても会えない不条理を許してはならないという思いを深くした。 日本の拉致騒動すなわちそれはまさしく朝鮮人民が日本から受けた深い傷そのものだ。何百万倍もの数で。敵対心をあおって何の解決があろう。 父の姿を見ながら、一刻も早く良識の下にお互いの痛みを理解しあい、不幸な歴史を繰り返さないよう、そして、離散家族が早くひとつになれるよう祈った。(尹美生、大阪府在住) [朝鮮新報 2006.7.12] |