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〈人物で見る朝鮮科学史−14〉 武寧王とその時代(下)

七支刀

 「百済」をそのまま音読みすれば「ひゃくさい」であるが、それを「くだら」と読むのは「大きい国」を意味する「クンナラ」に由来するというのが定説である。また、「くだらない」という表現は「百済にない」という言葉からきているともいわれている。百済に対する古代日本人の憧憬心を表しているが、実際、百済は科学技術先進国として日本に大きな影響を与えている。

 それらは「日本書紀」を通じて具体的に知ることができるが、その典型例として百済の近宵古王(在位346〜375年)が日本の使臣に鉄蹄(=ねりがね)40枚を与えたという記述を挙げることができる。鉄蹄は鉄を延べ板状に加工したもので、さまざまな鉄製品を造る原材料となるものである。古代史において鉄の役割についてはこれまでも強調してきたが、当初、日本では鉄を国産できず洛東江流域の伽倻諸国から輸入していた。伽倻の遺跡や日本の北九州地方から鉄蹄が出土されており、それが日本の鉄器文化を展開する土台となったことはまちがいないだろう。ゆえに、百済が日本に鉄蹄を与えたという事実は、百済を「クンナラ」とする両国の関係を端的に物語るものといえる。

 さらに、百済の優れた金属技術を実証するとともに、古代日本との深い関係を示す遺物に奈良の石上神宮の「七支刀」がある。長さ75センチ、剣身の左右に3本ずつの分枝が交互についた鹿の角のような形状の鉄剣である。この七支刀が有名なのは斬新なデザインもさることながら、その両面に金象嵌によって刻まれた60余字の銘文にある。表にはこの七支刀が369年に「百錬の鉄」によって製作されたと記されている。「百錬の鉄」とは、おそらく何度も炭火で焼いて鍛造したという意味と思われるが、裏にはこのような刀はいまだなかったとあり、製鉄技術に対する百済の自負が窺がえる。

 また、銘文には百済王の世子が倭王に与えたことが記されており、高句麗と対峙していた当時の百済と倭との関係を示す貴重な資料となっている。

 ところが、この七支刀を日本の研究者は百済が倭王に「献上」したと主張し、百済に対する倭国の優位性を強調していた。その本質は日本の植民地史観で、その最たるものは倭が南部朝鮮を支配していたという「任那日本府」説である。

 海を隔てて自国より高い科学技術を有する国を支配することができるのか、常識的に考えて無理な話であるが、それがまかり通っていたのである。さすがに否定されて久しいが、ただし、ある悪名高い教科書だけは例外のようである。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長)

[朝鮮新報 2006.7.22]