〈生涯現役〉 11時間の心臓手術に耐え抜いた−高蘭姫さん |
学ぶ以上に大切なものはない
九死に一生を得る、とはこんな体験を言うのか。今年2月4日朝8時30分。いつものように、隣の喫茶店でモーニングを食べている時、急に倒れて意識不明に。持病の心臓の回廊が破れるという絶体絶命の事態に突然見舞われてしまったのだ。 「医者には、次倒れると危ないから、人工バイパス手術を受けるように何度も宣告されていたが、80歳近くもなって、手術は金輪際、いやだと逃げていた」 しかし、この人は類まれな幸運の持ち主。まず、この日が土曜で在宅中の長男が救急車をすぐ手配し、近所の医師が適切な応急措置を取ってくれたこと、かかりつけの病院に搬送され、主治医がカルテを持って救急車に同乗、専門病院で緊急手術を受けられるように付き添ってくれた。こうした幸運が重なり、2回、11時間にわたる大手術、11リットルにおよぶ輸血に耐え、「奇跡的に命拾い」したのだった。しかも、家族が心配した後遺症も何一つなく、2カ月後に元気に退院した。 4.3事件を体験
1930年、神戸生まれ。父は済州島から徴用されてきた。苦しい家計の中から高さんを高等女学校まで出してくれた優しい父だった。 祖国解放を迎えたのは15歳のときだった。間もなく父と一緒に帰郷。少女にとって、洋々たる未来が待ち受けているかのような高揚感があった。しかし、それから3年後、朝鮮近代史の中でも最も凄惨な血塗られた事件が平和の島で起きた。米軍による祖国分断固定化を目の前にして済州島民が一斉蜂起した4.3事件。米軍の指揮の下、軍警、西北青年団による過酷な焦土化作戦によって、3万人以上の島民が虐殺されたのだ。 高さんの家族も例外ではなかった。民族主義者でもあった父はパルチザン活動に協力したが、密告によって捕まり、拷問のすえ銃殺された。「家族に知らせが来たのは、死後1カ月が経ってから。母が遺体を引き取りにいくと、すでに朽ち果てて…」。弟も生きたまま井戸に放り込まれて殺された。高さんの友人の少女も見せしめのため、市庁の前ではりつけの刑を受け、虐殺された。高さん自身も、パルチザンに協力して、秘密文書を夜陰に乗じて運んだりしたという。 「捕まれば、もうそれで一巻の終わり」。家族、親せき、知人、あらゆる人々が理不尽に命を奪われていった虐殺の時代を必死に生き延びた高さんだった。捕まる直前、父の機転によって、娘は命からがら大阪へ。 それから2年、済州島出身の8歳年上の青年と出会い、結婚。のちに大阪経済法科大教授、科協大阪支部会長となった故文道平氏である。「夫も4.3事件で父と弟3人が殺されて天涯孤独の身。互いに似たような境遇なので、友人が勧めてくれた」。 一家に3人の博士
大阪・西成の小さな部屋で新婚生活がスタートした。夫は中大阪朝鮮学校の教員だった。もちろん、一銭のお金も夫に期待してはいけない時代だった。2男5女の子宝に恵まれたが、生活のすべては高さんが賄った。 「洋服のまとめやボタン付けの仕事を小さな子どもと一緒に家族でこなした。一日100枚以上の洋服の注文があり、寝る間もなかった」。製品を子どもたちが配達して、家事も子どもたちが担った。かまどの薪を拾いに歩く子、はっぱを拾いに歩く子。親も子も生きるのに必死だった。 貧しいが充実した毎日。その間、高さんは朝鮮学校の給食作りにも精を出した。バイタリティあふれる一家は5年後には、2階建ての家を建てた。そんな時だ、夫からこんな申し入れがあったのは。 「わし、40歳になったやろ。この家売って、わしを学者にしてや」。肝っ玉母さんの返事は迷いなく一言、「ええで」。夫は大阪大学の研究員として学究生活に戻り、50歳で工学博士に。その後大学に職を得る。「やっと、経済的に楽になると思いきや、今度は科協の仕事に精を出して」。 その間、女性同盟生野南支部副委員長としてバリバリ活動し、7人の子ども全員を朝大に進ませ、孫14人がウリハッキョに通う。「何よりの私の自慢は、長男も父のあとを継いで有機化学の博士号を取得、結婚したそのつれあいも阪大のドクターコースを出て、理学博士になったこと」だと語る。植民地時代の悲惨な時代を体験した身にとって、祖国の統一と繁栄のためには、「学ぶこと以上に大事なことはない」と肌身に染みている。 今、高さんが余生を捧げようとしているのは、故郷済州島に耽羅の国の始祖王・高乙那の宗廟を建立することだ。「今年は6.15から6年。こんな時代が来るとは予想もしていなかった。4.3事件のおびただしい犠牲者たちが夢にまで見た民族の統一はもう目前。これからは、豊かな文化と歴史を甦らせるこうした文化事業が大切だと思う」と語る。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.7.22] |