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〈朝鮮と日本の詩人-15-〉 蔵原伸二郎

 冬の山道なり。/残照明るきところ、/三人の朝鮮人立ちいたり。/彼らの頭上に白い雲が輝き、/背高き一人はアメリカ煙草を吹かし、/一人は苦き顔して論議し、/肥えたる他の一人は黙然たり。/この寂寥なる風物の中、/いま彼らの故郷は希望に明るみ/自由なる鶴の一群―/蒼き夢のなかを飛びゆくか。/異郷のきびしき山道にたちて、/かれらの血は何を求めて叫ぶぞ!/ふと見上ぐれば昼の月出で、/白き鶏はかれらの足許を歩み去れり。/突兀たる石灰山が、/蒼天めがけて抜き立っているところ、/はるかなる岩かげに、/ゆがめる彼等の家は並び、/青衣の少女一人立ちていたり。/わが愛する朝鮮の人々よ、友よ、/ともに和敬と静寂とをたずねて/蕭条たる疎林の中に消えてゆく、/あの一本の山道を歩いてゆこう

 蔵原伸二郎の右の詩「朝鮮人のいる道」(全文)は、彼の出身地である九州北部の石灰鉱山で強制労働にかり出されていた朝鮮人が、解放を迎えた時の状況をうたったものである。

 当時、朝鮮人に対する蔑視と虐待が一般的であった風潮にさからって、詩人は、「いま彼らの故郷は希望に明るみ/自由なる鶴の一群」となって歓喜する朝鮮人の姿に温かい心をよせている。

 そして「わが愛する朝鮮の人々よ、友よ」と呼びかけて「和敬と静寂」をつくり出していくことを誓っている。

 詩全体に浸出しているモチーフは、自分が「戦闘機」(詩集)など戦争詩を書いた罪をも含めての、日本の植民地支配に対する贖罪意識である。

 伸二郎は日本的ナショナリズムの濃厚な処女詩集「東洋の満月」(1939)をもって萩原朔太郎、川端康成に認められて詩壇に登場したが、先述のように、日本の侵略戦争を肯定する詩を書いた。しかし、敗戦後にはそれを悔いて、自己の世界に閉じこもり、幽玄体ともいうべき叙情の境地をきりひらいた。(卞宰洙、文芸評論家)

[朝鮮新報 2006.8.4]