〈人物で見る朝鮮科学史−15〉 渡来人とキトラ古墳(上) |
「文明開化」という言葉がある。普通は鎖国政策をとっていた日本が開国後、科学技術を中心とする西洋文物を積極的に取り入れ社会を進歩させた出来事と理解されている。しかし、時代を限定させなければ、その言葉が意味する出来事はすでにあった。それは、古代朝鮮からの先進的文化の伝来である。 本稿の連載も10回を過ぎたが、これまで科学者、あるいは技術者と呼べる人が登場したのは2回だけである。それは、「三国史記」をはじめとする朝鮮の古文献には三国時代以前の科学者、技術者に関する記述がほとんどないからだ。 では、彼らの名前が残っていないかといえば、そうではなく日本の古文献に数多くの記述がある。すでに紹介した610年に高句麗の僧・曇徴が紙と彩色技術を伝えたというのも、「日本書記」によるもの。彼らは「渡来人」と呼ばれているが、現在、日本で用いられている「博士」という学位も渡来人たちの官職に起因する。 渡来人のなかでもっとも古い事例は、4世紀後半頃に「論語」「千文字」を携えて来日した百済の学者・王仁である。史実というよりも伝説に近いが、そうだとしても東洋的学問の典型である「論語」「千文字」と関連づけられるということは、やはり渡来人が日本の学問において決定的な役割を果たしたことを物語る。
とくに、日本の医学、暦学に寄与した学者たちの役割は非常に大きいことが知られているが、459年には高句麗医・徳来が、553年には百済の医博士・王有陵陀、採薬師・瀋量豊、丁有陀らが日本に渡っている。また、554年には百済の暦博士・固徳王保孫が、602年には僧・観勒が天文、暦書および遁甲術などの書籍を携え来日している。671年には渡来人の協力を得て日本で初めて漏刻(水時計)が造られたが、その日4月25日は太陽暦で6月10日にあたり、「時の記念日」に制定されている。また、仏教も朝鮮から伝わったが、595年に来日した高句麗の高僧・慧慈は聖徳太子の師としてあまりにも有名である。さらに、奈良時代の渡来人系の僧である行基は大仏建立に尽力しただけでなく、橋、池、溝、堀などの土木事業も盛んに行った。 このように、古代日本の文明開化を担った渡来人たちであるが、いずれも日本の為政者の招きによるもので、「招来人」という呼称が事実に近い。彼らが得た安住の地は「安宿」と名づけられ、その枕詞であった「飛鳥」も「あすか」と読まれるようになった。現在の奈良県明日香村であるが、当時の都であった藤原京は整然とした区画の都市であったことが判明している。その築営においても渡来系技術者たちが大きな役割を果たした。そして、その真南のほぼ直線上に2つの古墳がある。高松塚古墳とキトラ古墳である。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.8.5] |