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〈生涯現役〉 祖国の緑化に貢献した女性商工人−安秉玉さん

 海の美しい済州島の生まれ。平和な時代であれば、学問を身につけて、実業界であれどこであれ、世界に雄飛した才女であろう。

 しかし、日本による朝鮮侵略と略奪は、あらゆる同胞の運命をも変え、奈落の底に突き落としたのだ。安秉玉さんもその一人。

 同胞女性の間では知る人ぞ知る存在である。手広く商売を営むかたわら、女性同盟東京都本部副委員長(非専従)、祖国平和統一協会副会長などの重責を担ってきた。伊豆・下田にあるホテル海山荘社長として半世紀近くも、東京−下田間を毎週往復してきた類まれなるバイタリティー。弱音や愚痴とは無縁の強靭な精神力が、艱難辛苦の人生を支えてきた。

9歳から働き詰め

40代の頃、大ケガをした後遺症で今も腰痛に苦しむという

 日本の侵略が激化する満州事変(1931年)の前々年、29年1月、南済州郡表善面で産声をあげた。すでに運命の暗い影は、生まれたばかりの安さんの頭上を覆いつくしていた。赤痢がはやり、多くの親族の命が奪われ、食べ物もないどん底の暮し。安さんが生まれる前に父が出奔したため、母に連れられて9歳の時に玄界灘を渡って大阪へ。ひとまず叔父を頼って浪速区に荷を下ろした。しかし、生活は待ってはくれない。チャックを手縫いで作る町工場にすぐ働きに出た。年端もいかない少女にとって、朝7時から夜中までの重労働はこたえた。その後も傘張りや軍需工場での飛行機の天幕作りなどどんな仕事もいとわず懸命にこなした。労働の合間には、夜間学校に2年間学び、読み書きを覚えた。

 その間に父が見つかり、一緒に暮らすことに。「兄2人のあとの1人娘ということで、父は短い間だったが本当にかわいがってくれた。夜中もおんぶしてくれて…。結局、結核で3年後に亡くなった」。

 人間扱いをされない時代だった。お使いから帰ってくるのを待ち伏せした悪童たちに、「豆腐をぐちゃぐちゃにされたことも一度や二度じゃない」と70年以上前の悔しさを思い出す安さん。自分の自転車に乗っていても、「不逞鮮人」と呼び止められて警官の取り調べを受けたり、肉を買って帰るときには、「どこで盗んだんだ!」とどろぼう扱いを受けたことも。

戦後の食糧買い出し

山菜採りでホッと一息

 45年3月には、大阪の大空襲で家が焼かれ、親せきの住む西成に慌しく移り住む。そして8.15を迎えた。その間も、食糧の買出しにでかけ、母との暮らしをひたむきに支えた。

 3年後に上京。中野で母娘の新生活が始まった。兄嫁の紹介で6歳年上の青年、康太植さんと所帯を持った。社会主義に夢を抱く苦学生で、やがて中央大学法学部に学び、その後、統一運動に生涯を捧げた。

 「夫の学費も全部、私が働いて工面した。夫に『パッカルセ(役牛)』とからかわれながら、働き詰めの連続だった。21歳から32歳の間に3男4女に恵まれたが、産後3日続けて床に伏したことなどなかった」。乳飲み子をおんぶして、闇市で米の買出しをしたり、中野駅前で来る日も来る日も一日12時間以上、タバコ買いに立ったり、くず鉄拾いをしたり…。そんなとき、荻窪・永福町の防空壕を偶然見つけ、何度もリヤカーでくず鉄を運び出し、お金を稼いだ。

 「それを元手にパチンコ店を出したからね。お金を畳の下に隠していたら、夫に見つかって心臓が飛び出るほど驚かれた」

頼まれたらいやと言えぬ

チョゴリファッションショーに出演し、大きな拍手を受けた(00年7月、西東京で)

 景気のいい話は長く続かなかった。3カ月後に失敗。やがて、メーデー事件で追われ、群馬県の農家に身を隠したが、一年後に戻った。その後も、新宿で焼肉店や雀荘、喫茶店、クラブなど、商売を広げていった。猛烈に働き、ほぼ24時間を商売に捧げ、家のことや子育ては同胞たちの手を借りたと語る。

 資金繰りに困って2、3日家に帰れないときもあった。久しぶりに帰ってみたら、子どもは飢餓状態。「新聞を食べても、お腹がふくれなかった」と子どもから言われたことも。

 お金に困った同胞がいたら、貯金通帳ごと渡す太っ腹の気質。「頼まれたら、たとえ借りてでも工面しないと気がすまない」性分だ。

 女性同盟には初期の頃から参加、女性の権利尊重の動きに共鳴したという。わずか9歳で職に就き、戦後の焼野原から自らの才覚で運命を切り開いてきた。その壮絶な人生を貫く哲学は、「祖国あってこその幸せであり、組織の団結こそ力の源泉」だと話す。

 一方、祖国の緑化に貢献するために、平壌・龍山里の東明王陵に隣接する総連愛国林に多くの苗木を贈った。

 安さんは、緑豊かな国土の再建に貢献するのは、植民地支配と分断に苦しんだ世代の責務だとほほえんだ。(朴日粉記者) 

[朝鮮新報 2006.8.7]