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〈本の紹介〉 「とりあげないで わたしの学校 枝川朝鮮学校裁判の記録 〈第一集〉」

 本書は、今年6月までに行われた枝川朝鮮学校裁判13回の公判の記録である。

 裁判はマスコミにもたびたび取り上げられ、学校に対する支援の輪は大きく広がり、南朝鮮にまで及んでいる。

 2003年12月、東京都は、東京朝鮮第2初級学校の校舎の一部を取り壊し、「不法占有」している都有地である校地の一部約4000平方メートルを明け渡し、1990年4月1日以降の使用相当損害金として約4億円の支払いを求めて提訴した。

 問題の土地(戦前の深川区。現在の江東区の一部、塩崎・浜園)には戦前、バラックの朝鮮人集落が形成されており、東京市(現在の東京都)は撤去しようと画策していた。1936年のIOC総会で東京オリンピックを1940年に開催することが決定され、その会場の一部として塩崎等が指定されたことを契機に、東京市は埋め立てを終えたばかりの陸の孤島ともいうべき枝川地区に朝鮮人を移そうと計画した。

 東京オリンピックは日中戦争の激化により中止になったが、移住計画は継続され、1941年7月、ゴミ焼却場と消毒場しかない荒れ地に230戸の簡易住宅を建て、1000人以上の朝鮮人を強制移住させた。それは、玄関も台所もトイレもお風呂もない、工事現場用バラックのような粗末な建物だった。

 枝川は埋め立て地であるのに堤防、排水などの十分な設備がなく、雨が降るたびに土地がぬかるみ、浸水に見舞われ、共同トイレの汚水が道路一面にあふれる始末。さらに、ゴミ焼却場や消毒場と隣接しているため、ハエや悪臭に常に悩まされる劣悪な住環境だった。

 枝川の町の歴史は、現在、65人の子どもたちが学ぶ東京朝鮮第2初級学校の歴史でもある。

 枝川裁判支援連絡会の村田文雄さんは、「枝川裁判に多くの人々が関心を寄せるのも、この裁判が戦前の日本帝国主義の侵略と植民地政策につながる過去の歴史を知り、現在の日本と朝鮮、韓国との関係を考え、未来を在日の人々とどう向き合って生きていこうとしているのかを問うているからにほかならない」との文章を寄せている。

 本書には、学校、弁護団、研究者、支援連絡会が記した文章と、被告側準備書面などの資料がまとめられている。(枝川裁判支援連絡会 編、樹花舎、TEL 03・5609・8110)(金潤順記者) 

[朝鮮新報 2006.8.7]