〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−12〉 女将軍 金命時 |
金命時は祖国を取り戻すため21年間戦い続けた女性革命闘士である。 彼女は、慶尚南道馬山の出身。2男2女の4人兄弟で、上から2番目の長女。早く父を亡くし、母1人の手で育てられた。 母は民族意識の強い人で3.1運動の時犠牲になった。その時彼女は13歳、兄炯善は15歳、弟炯潤は8歳、妹は4歳でまだ手のかかる年頃だった。 それでも4人兄弟はいたわりあいながら強く生きていった。それも、炯善、命時、炯潤の3人が民族解放運動に一身を捧げる革命闘士として成長していくのである。 兄弟のこのような透徹した民族意識は母の影響、それに抵抗の歴史を持つ馬山の地域性によるものと考えられる。とくに社会主義運動の第一線で活躍していた兄炯善が彼女に与えた影響は大きい。 1924年馬山公立普通学校の卒業を前後して兄と親交のあった金丹冶、權五咼と接触、馬山地域運動の大元とも言うべき金明奎の指導も受けたという。 1925年4月、彼女は決心のすえソウルに行き培花女学校に入学する。しかし、わずか数カ月後に学費を払えず中退。その後故郷で早稲田高等女学校の講義録を持って独学中、9月に朝鮮共産党の推選する第1回モスクワ留学生21人中の1人として選ばれる。 同期に高明子、金祚伊(゙奉岩の妻)、權五稷、゙龍岩(゙奉岩の弟)などがいた。 闘いの幕開け モスクワ留学への道は彼女自身が言ったように「19歳の時から今日(解放)までの21年間の私の闘い」の幕開けとなるのである。 10月京城(ソウル)を出発、釜山から長崎に渡り、そこから上海へと向かった。そこで独立運動家、呂運亨と会い、彼の紹介で旅券を購入、鄭炳旭の案内でウラジオストックを経由、12月中旬頃モスクワに到着した。1927年6月予備科を卒業するが、留学生活は1年半で終わりを告げ中国へ派遣される。 上海に到着した彼女は、呂運亨の家に身を寄せ、1927年8月には洪南杓が保証人となり中国共産党に加入。韓人特別支部(中国共産党上海韓人支部と思われる)で青年層と婦人層を指導しながら呂運亨と共に「無産者新聞」を発行する。 また、1928年6月17日に組織され、具然欽が責任秘書を務める中国共産党民族委員会傘下の東方被圧迫民族反帝大同盟籌備会の委員として活動した。 一国一党原則のもと、彼女は中国側に立って日帝と闘うことが祖国の独立を勝ち取る道と信じ、吉林省阿城縣で中国共産党の指示のもと洪南杓と共に北満州で活発な活動を展開した。過労と日警の監視が強まる中、洪南杓と歩いて上海に戻り1931年の夏から再び上海で党再建に力を注ぐ。 うれしい再会 1932年3月30日、秘密裏にソウルに潜入した彼女は、兄炯善とうれしい再会を果たし、ビラの印刷、配布など兄といっしょに活動する。だが、5.1メーデーに警察の襲撃を受け多数の逮捕者が出る。彼女も歩いて新義州まで逃げるが逮捕されてしまう。 数カ月後にば奉岩、洪南杓、明くる年には兄炯善も逮捕された。彼女は平壌刑務所で7年の刑、兄炯善はソウル西大門刑務所で8年間服役した。またこの間弟も教育労働組合事件で釜山刑務所に捕らわれる身となった。 7年後出獄した彼女は、再び中国へ脱出。天津、済南、北京、太原など中国八路軍区域で厳しい闘いを展開した。そして、1928年に別れ死んだと思った同志、武亭(または武丁)と16年ぶりに再会、彼の率いる朝鮮義勇軍に入団、遊撃戦法を習い、第一線の敵区部隊として男の軍人と同じように戦った。 21年間の闘い 義勇軍には「従軍慰安婦」出身の朝鮮人女性をはじめ、女の軍人も相当いたが、彼女は女子部隊を指揮する「女将軍」として勇敢に戦った。 一方、朝鮮独立同盟の天津分盟責任者としても活動。第3次全体大会(1945.8.29)に参加するため延安に向かう途中、日本の降伏と朝鮮の解放を知らされる。女性闘士・朴鎭洪らと奉天に集結、12月中旬、21年間の戦いを終え祖国へ戻った。 解放後はソウルで全国婦女総同盟結成大会に参加、李順今、許貞淑、朴鎭洪らと共に熱い歓迎を受けた。 全国婦女総同盟の幹部(中央委員兼宣伝部長)、そして、民主主義民族戦線でも活動し、1947年頃越北したというがその後のことはわからない。 革命一筋、猛烈に生きた女将軍の21年間の熾烈な道のりであった。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) 金命時(1907〜?)。馬山公立普通学校を経てソウル培花女学校を中退。高麗共青に加入、朝鮮共産党の推選する第1回モスクワ留学生(21人)に選抜。予備科卒業直後指令を受け中国に入り中国共産党に加入。国内で逮捕され7年間獄中生活。出獄後中国で朝鮮義勇軍に入団、女子部隊を指揮。解放後ソウルで全国婦女総同盟、民主主義民族戦線で活動、その後越北。 [朝鮮新報 2006.8.11] |