新発見の「明成皇后推定写真について」 100年以上も続く真偽めぐる論争 |
閔妃ではない、「宮女」か 報道によると、現在韓国内では、「明成皇后推定写真」なるものが発表されて大きな議論になっているという。明成皇后とは閔妃のことである。 かつて私は、閔妃写真として角田房子著「閔妃暗殺」の表紙と口絵に使われた問題写真について、「歴史読本」や平凡社の「月刊百科」、それに朝鮮時報などであの写真は閔妃でないということを具体的に論証したことがある。その時、私があの写真を閔妃でないと断定した最大のものは、頭上左右に大きな輪に結った独得の髪型であった。これは今、韓国内でも「宮女」という所に落ち着いたようだ。 今度出された閔妃推定写真は、あの髪型ではない。なんでも1894年から1895年にかけて朝鮮に来ていたあるドイツ人が持っていた33枚の写真を、イギリス人ベニツという人物が3年前、ロンドンの古書店から購入し、その中に問題写真が入っていて、これを「明成皇后推定写真」として公表したものである。その際、4枚の写真が紹介されたが、左上は高宗と純宗、右上は閔妃、下の左右2枚は大院君とされた。 閔妃とされる写真の下部にはドイツ文で「殺された王妃」と書かれているらしい。殺された王妃ならば閔妃にまちがいない。大院君、高宗、純宗とくれば、あとは閔妃であろう。それに閔妃とされる写真の背景と大院君写真の背景は全く同じと思われる。これらの点をふまえて、この写真を誰が、いつ、どこで撮ったのかという確認もなしに真偽論争が起こったというから気の早い話ではある。 私は問題の推定写真は閔妃ではないと考えている。その否定の根拠を、3点か4点に整理して納得を得たいと思う。 まず1点は、髪型と服装である。たしかに今度の写真の髪型は、角田本「閔妃暗殺」の写真とは異なる。しかし、「宮女」の髪型は当時、少なくも2種類はあったと思う。英人女性イサベラ・バードはその著書(訳本「朝鮮奥地紀行」平凡社刊)で閔妃に会ったことを書いている。そこでは高宗と「宮女」の肖像画は載せているが、閔妃のものはない。その時の「宮女」の図が別掲図である。閔妃推定写真に非常に似ているのがわかると思う。しかもバードは、閔妃の頭かざりの豪華さと、服装のきらびやかさと服のかざりの宝石類などに触れている。今度の写真のそれは素朴きわまるもので、王妃の服装ととても言えるものではない。 第2点は大院君の写真と問題写真の背景が一致していることである。まず考えるべきは、この写真は必ずしも宮中で撮ったとは言いがたい。大院君の左の写真は正装である。権力掌握時のものと思う。 彼の権力掌握期は3回ある。1は高宗親政前の10年間、2は壬午軍乱時の30余日間。そして3はこの13年後の閔妃暗殺後の時期である。ただし、清日戦争後の時期、つまり日本の力が李王朝を圧していた時期、大院君は王宮に出入りし、王宮内で閔妃と顔を合せることはあったと思う。イサベラ・バードも王宮内で大院君に紹介されている。しかし、高宗親政以後、大院君と閔妃はお互いを消したい、と思うほどに憎み合っていた。大院君の右の写真は略装と思われる。威儀を正した正装とは全く異なる。この写真は王宮内ではなく、別な場所、たとえば大院君の邸、雲山見宮内ではないかと思われる。時間をへだててとしても、王宮内で大院君と閔妃が同じ背景で写真を撮るとは到底考えられない。 第3点は、推定写真公表直後に報道された、この推定写真の原本写真の存在である。原本写真は1891(明治24)年に米国立博物館が出した「韓国コレクション」中のもので、この写真の英語説明は「韓国の宮女」となっているという。発見者は韓国の明知大学の金チギュ教授である。 第4点、1894年から95年にかけて朝鮮に来ていたドイツ人はなぜ、「閔妃推定写真」に「殺された王妃」と説明をつけたのか。@は故意のわい曲である。Aは、誰も閔妃を知らないのだから、善意の親切心からであろう。 それにしても、閔妃暗殺後、100年以上経っているのに、いまだに閔妃写真の真偽をめぐって朝鮮社会で大論争になるのはなぜだろう。それは、日本政府がいまだに歴史問題について、きちっとした対応を示していないのも一因である。当時、閔妃暗殺関係者は全員無罪放免となった。これが今に至るも尾を引いている。(琴秉洞、朝・日近代史研究者) [朝鮮新報 2006.8.23] |