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〈本の紹介〉 前夜ブックレットA この国で〈精神の自由〉を求めて

 本書は、季刊「前夜」ブックレットとして今年5月に刊行された。04年の季刊「前夜」の創刊号および第2号に掲載され、好評を博した著者へのロングインタビューと、05年、独島問題に揺れる最中に行われたソウル大学での著者による講演を併録したもの。

 この中で、著書は「知的であること」の最低限の定義として次のように指摘している。

 「私たちの文脈での基本的な理解は、政治的社会的問題について思考停止をやめること、自分が生きている時代と社会の大勢に無批判に追随することを止め、自分の頭で問題を考え、批判的な検証を怠らないこと、単に知識をもっているというだけでなく、自分自身で諸問題を検証するために知識を求め、つねにより深く適切な判断を形成するよう努力すること、といったことになるでしょう」。さらに、著書は力説してやまない。徹底的に「知的」であること、批判的であること、それこそが「抵抗」の条件であると。

 一方、本書に収録されたソウル大学の講演では、日本の植民地主義を追及してきた著者ならではの視点で、「靖国」のもう一つの歴史をえぐり出している。著者によれば、靖国に合祀されているA級戦犯とは、東京裁判で事実上、満州事変以降の戦争責任を問われた者に過ぎない。しかし、靖国には日本植民地主義の歴史である、1874年の台湾出兵から江華島事件、壬午政変、甲申軍乱など日本の朝鮮侵略過程での日本軍の戦死者、靖国神社で「韓国暴徒鎮圧事件」(1906〜11年)、満州事変後の「匪賊および不逞鮮人の討伐」(1931〜32年)などと呼んでいる植民地弾圧のための日本軍戦死者など、朝鮮や台湾などの植民地獲得と抵抗運動弾圧のための日本軍戦死者が合祀され、英霊として顕彰されている。朝鮮民族の立場から言えば、A級戦犯合祀の問題以上に戦死者の顕彰を通じて朝鮮侵略と植民地支配を正当化し続けた靖国の本質こそ追及されるべきではないか。

 日本のメディアの「靖国」論議はこうした侵略戦争の実相には触れず、近隣諸国の批判に「反日」のレッテルを張るだけの稚拙なものに終始している。「靖国」を通して、日本の植民地主義と侵略戦争の本質に迫る著者の姿勢に強い共感を覚える。(朴日粉記者) 

[朝鮮新報 2006.8.23]