〈人物で見る朝鮮科学史−16〉 渡来人とキトラ古墳(中) |
現在、日本でもっとも有名な古墳といえば、おそらく高松塚古墳とキトラ古墳である。その理由は、現時点で確認されたかぎりではあるが、壁画が描かれた古墳はこの二つしかないからである。 高松塚古墳の発掘調査が行われたのは1972年のことで、星宿図、四神図と男女16人が描かれた壁画が発見され大きな話題となった。そこで、ほかにも壁画が描かれた古墳がないのかを確認するために近くのマルコ山古墳を調べたがそこにはなかった。そこで、さらにキトラ古墳を調べたところ四神図の一つである玄武が見つかったのである。1983年のことである。その後、調査は一時中断したが、1998年の調査によって四神図の青龍、白虎と天文図が、2001年には朱雀が確認された。 壁画古墳といえば高句麗が有名で、古代の朝鮮と日本の関係からその影響が考えられるが、同時に高松塚、キトラ二つの壁画の関係にも興味がわく。実際、両者の青龍と白虎は酷似しており、同じ原図をもとに描かれたことはまちがいない(玄武と朱雀は、高松塚のそれがほとんど残っていない)。 ところが、それに反して天文図は少々異なっている。高松塚古墳のそれは28の星座を描いたいわゆる星宿図であるが、キトラ古墳のそれはより精密な天文図といえるものである。金箔で表した星を朱線で結び星座を表示しているが、星の数は約350個、星座も68ほどが認められ、現存する最古の天文図と評されている。
これまでよく知られていた天文図は、中国蘇州に残る「淳祐石刻天文図」(1247年)と朝鮮朝時代の「天象列次分野之図」(1395年)である。それらは約1500個の星と280ほどの星座が描かれた非常に精密な天文図で、東アジアの天文学の高い水準を示すものである。それらとキトラ天文図を比べて見ると、全体的には「天象列次分野之図」に近いが一部星座の形が異なっている。では、キトラ天文図はそれらとは無関係な日本独自のものなのかに関心が集まった。 そこで、次にキトラ天文図が描く「天空」はどこで見られるものなのかが検討された。北極星を中心に天空を見たとき、もし北極点にあれば見える範囲が大きく、赤道に近くなるほどその範囲は小さくなる。そこから観測地点を特定できるのであるが、その結果、キトラ天文図は北緯39度付近であると判明した。当時、この位置に都があったのは高句麗の平壌であり、ゆえにキトラ天文図は高句麗からの渡来人がその原図を持ち込んだものと考えられる。 高松塚・キトラ古墳の被葬者は、おそらく高句麗系の渡来人で、その墳墓も故国の慣習にならって築造された。これが、この二つの古墳にだけ壁画が描かれた一番わかりやすい理由だろう。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.8.26] |