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〈本の紹介〉 棗椰子の木陰で

「棗椰子」に託す希望の灯

 米軍によって、徹底的に爆撃されるイラクの街。その下に生きる幾万の市井の人々、女性や老人や子どもたち。著者は爆撃にさらされ、殺りくされる民衆の側から「人間の歴史の悲劇」を常にみつめてきた気鋭の学者である。専攻は現代アラブ文学と第三世界フェミニズム思想。自らが民族、階級的な「加害者」の立場に位置することを自覚し、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、強い警鐘を鳴らしてきた。

 本書は第三世界の女性たちの声に耳を澄まし、フェミニズムを大きく動かした著者が、文学や映画をはじめとして、「出来事の深みに降りゆく想像力を持つさまざまな試み」を通して、新たな世界への扉を探りあてようとした思索の足跡である。この10年の間に発表されたエッセイを編んだもので、真摯で誠実な語り口に思わず引き込まれていく。

 とりわけ秀逸な一文は本書のタイトルにもなった「棗椰子の木陰で」である。著者はこう問いかけている。「かつてサルトルは、アフリカで子供が飢えているときに文学に何ができるかと問うたが、米軍包囲下のファルージャで、あるいはイスラエル軍再侵攻下のパレスチナで、イラク人やパレスチナ人の命など虫けらほどの価値もないかのように日々、人々が殺されているこのとき、いったい文学に何ができるのかという問いは、アラブ文学に携わる私自身の痛切な思いである」。

 イラクやパレスチナの過酷な状況を生きている人々の「いま」が、優れた作家の手で文学作品として形象化されるとしても、私たちの元に届けられるまでにいったい幾日、幾月、幾年の歳月が要されようか。気の長い話である。著書が指摘するように、「今、ここ」の現実を世界に瞬時に知らせる仕事は、むしろジャーナリズムの仕事である。その過酷な現実の前では、「文学は依然、無力であると言わざるをえない」のだ。

 しかし、著者は思索をもう一歩すすめて、私たちの人間的想像力と他者に対する共感を喚起するものとしての文学の底力、物語のもつ圧倒的な力に着目してやまない。

 著者が日本で知り合ったバスラ出身のあるイラク人。彼が語ったバスラは石油だけの街ではなく、旧約聖書の時代まで遡る、とても旧い都市であること、そしてかつては何百万本もの棗椰子の林に覆われたこのうえもなく美しい街であったこと…。

 著者はそこから想像をめぐらしていく。棗椰子とともに何世紀も生きてきた人々の暮らしや、そこで息づく哀歓を。実を収穫し、油を搾り、石鹸を作り−幾世代を越えて人々が愛し、故郷の原風景として記憶し、慈しんできたもの。それらが米軍の爆撃によって焼き尽くされていく。その焼かれ、引き裂かれた木の痛みや叫びは、バスラの人々の悲痛に重なるのだ。バスラの人々が棗椰子とともにどのようにその生を営んできたか、その具体的な生の細部を私たちが知らなければ、焼け焦げた棗椰子の映像を私たちがたとえ目にしたとしても、それは「戦争の惨禍」なるものを伝える記号にとどまり、棗椰子と共に生きてきたバスラの人々の心の痛みまでは思い至らないだろうと。

 大切なのは、そうした出来事すべてに先立って、人々がどのように生を営んだか、何を愛し、何を慈しみ、何を大切にして生きてきたか。その細部を知らなければ、「反戦」や「平和」を唱えてもそれは心に響かない抽象的なお題目に過ぎないのだ。

 著者が棗椰子に託す希望は、かつて朝鮮民族が日本の植民地支配下にあっても、「無窮花」にどのような圧迫にも滅びることのない民族の気概を託した歴史を想起させる。かつての「無窮花」、いまの「棗椰子」の物語こそ切実に求められる。(岡真理著、青土社、TEL 03・3291・9831)(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2006.8.28]