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〈本の紹介〉 分断される日本

「現代版総動員体制」への警鐘

 著者の本を手にするのは「ルポ改憲潮流」(岩波新書2006年6月)に続き、本書が2冊目である。正直言って私は、月刊「イオ」(2005年8月号)の紹介欄で名前を知るまで、著者をよく知らなかった「にわか読者」である。おそらく私の頭のどこかに、いまの日本社会のありようとまともに向き合う「活字」はほとんどなくなってしまったとの諦め、投げやりな気持ちがあったのだろう。実際のところ、よほど大きな書店でないかぎり、一般書店からは社会評論の本を置くコーナーが確実に消えつつある。読む側(購買者)のニーズがないと言ってしまえばお終いだが、寂しいというよりも空恐ろしい感すらある。

 斎藤貴男氏は、日本工業新聞、週刊文春、プレジデントなどの記者を経てフリーになり、人間一人ひとりの命と尊厳を何よりも優先したいとの原点に立って権力に抗ってきた気鋭のジャーナリストである。

 本書は、「はしがき」にあるように、ここ四半世紀の間に「可能な限り多様なアプローチで、現代の日本社会を照射してきた」著者が、「この国の社会で生きている生身の私たち自身のありようが、どのように変えられてしまっているのか、描き出そうとした」ものである。具体的には、「日本の米国化」と同時進行形で、上流と下流、勝ち組と負け組、見張る者と見張られる者、エリートと従順な国民など、「あるゆる領域で分断」されつつある日本の現状を掘り起こしたルポや講演録から成る、アンソロジー(作品集)である。

 私自身、千代田区内に在勤する者として、「路上喫煙禁止」(千代田区生活環境条例の一部)→「安全、安心まちづくり」→「現代版総動員体制」との指摘にはハッとさせられた。また、デジタルカメラの「顔くっきり」機能が街中にあふれる監視カメラの顔認識ソフトの転用であったとは、いささか気味の悪い話である。

 「監視カメラと市民社会」「調整弁にされる若者たち」「エリート養成学校♀C陽学園の背後に控える思惑」「『共謀罪』が強いる絶対服従」などなど、目次にさらりと目を通したとき、少々息苦しさを感じるかもしれない。しかし、読み終えたときには、渇いた喉を清冽な水で癒したようなさわやかな気分になれよう。

 本書のタイトル「分断された日本」の「分断」の二文字は、「南北分断」や「在日同胞社会の分断」の例を挙げるまでもなく、元来、在日朝鮮人と関わりの深い単語である。この「分断」の日本社会における新たな意味、そこに込められた警告を読み取るとき、私たち在日朝鮮人の中にもありがちな独善や惰性をふるい落とし、他者への想像力、寛容さ、優しさをもつことができよう。

 著者は、昨今の弱者バッシング、歪んだ、癒しとしてのナショナリズム≠語るとき、日本の加害責任論が高まった1990年代の前半、戦後50年の節目からの急激な転落ぶりに注目する。この「失われた十年」を、読者と共に再検証することを望んでいるのかもしれない。「社会システムの全体をアメリカと一体化させていこうとする現代の日本」とのくだりで、ふと思い起こしたのは「日本の異文化受容=西洋化(米国化)」のフレーズだった。小坂井敏晶著「異文化受容のパラドックス」(朝日選書)の刊行は10年前の1996年である。

 「監視社会の監視こそ言論人の責務」と著者は言い放ち、「今さらギャアギャア騒ぐ人々」、この「絶滅危惧種」を甦らせなければならないと主張する。

 「雨垂れ石を穿つ」、自戒を込めてエールを送りたい。(斎藤貴男著、角川書店)(金明守、総聯中央本部参事)

[朝鮮新報 2006.8.28]