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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−13〉 独立運動家 金マリア

 金マリアは、奪われた祖国と民族に対する限りない愛を抱き、不屈の精神で生涯を闘い抜いた独立運動家であり、女性啓蒙運動家である。

 彼女は、朝鮮でキリスト教が最初に根付いた黄海道長淵で3人姉妹の末っ子として生まれた。開明的なクリスチャンであった父はキリスト教式にマリア(瑪利亞)と名付け、聡明で、剛直で、気迫のある彼女を、男装させ連れて歩いたと言う。両親は早くに亡くなり、親せきの援助でソウルの貞信女学校に進学する。

 身を寄せていた叔父弼淳は愛国の志士たちとの親交が厚く家に盧伯麟、李東輝、金奎植(のちに姑母の夫となる)、柳東悦、李甲らが出入りしていた。このような環境と貞信女学校の朝鮮人教師で恩師に当たる辛瑪利亞が彼女の民族意識形成に大きな影響を与えた。

2.8独立宣言

 貞信女学校卒業後、光州のスピア女学校、母校の貞信女学校で教べんを執るが、姑母の弼礼のあとを追って1914年、東京の女子学院に留学した。

 1918年、「東京留学生独立団」に加わった彼女は堅い意志と活発な活動を通して宋継伯、白寛洙、黄愛施徳らと親交を結び、1919年の2.8独立宣言を準備した。歴史的な2.8宣言を前にして開かれた2月6日の会合で、「独立を願う心、女とて変わりはない」と愛国心あふれる熱弁を吐露した。

 2月8日、独立宣言式には男女留学生たちが大勢集まった。このときマリアと黄愛施徳は日警に連行された。釈放された彼女はその足で夜を徹し独立宣言書を謄写した。

 2月15日、彼女は日本の着物を身に着け帯の中に独立宣言書10余枚をそっと携え帰国した。

 独立運動の同志を糾合するため彼女は地方の学校、教会、病院などを巡回。3.1独立運動で母校の学生と共に逮捕されるが、法廷で「独立運動は男女がともになさねばならず、朝鮮と日本の幸福と世界の平和を図るためのもの」であることを堂々と陳述した。

 5カ月後仮釈放されるが、このとき乳房を切り取られるほどのひどい拷問を受けた。彼女は以降、その拷問が原因で上顎骨蓄膿症と耳骨の中に膿がたまるメストイ病という難病に生涯苦しめられることになる。

「大韓民国愛国婦人会」結成

 1919年10月19日、彼女は貞信女学校の構内で全国の婦人会を統合し、秘密結社「大韓民国愛国婦人会」を結成した。

 彼女は13道に支部を置き、支部長を配置して独立運動を大きく繰り広げる計画を立てた。しかし、これを実現する前に組織が発覚、再び彼女は全国の1000人を超える会員と共に投獄された。

 金マリア、黄愛施徳は3年、張善禧、金英順、李貞淑は懲役2年、李恵卿、辛義卿、白信永、兪二卿は1年の刑が下された。

 警察は会長であったマリアを責め立てれば組織は全部暴きだせると信じ、残忍きわまる拷問を加えた。

 「監房に閉じ込められた彼女は自分の体を支えることさえできず、失神した人のように床に倒れていた。それはとても見るに忍びなかった」

 これは大邱刑務所に面会に行ったある友人の話である。こうして彼女は服役中に病気保釈となるが、これを機に亡命を決意する。29歳の彼女は若い娘に変装して、仁川から中国威海衛を経て上海に向かった。

解放を目前に

 上海や南京で約1年半過ごしたあと、姑母夫の徐丙浩について米国に行く。この時在米中だった黄愛施徳や李善行、朴仁徳らと在米大韓民国愛国婦人会−槿花会を結成、女性の解放についても目を開いていく。

 またこの間、パーク大学文学部、シカゴ大学の社会学科で学び社会学博士号を取得した。

 彼女が帰国したのは1933年、植民地政策がより厳しくなっていた時期であった。元山での居住制限と警察の監視のもとでマルタウイルソン神学校教師として過ごすことになるが、「神社参拝」を拒否するなど不屈の意志を見せる中1941年12月、太平洋戦争勃発直前に病に倒れ平壌の病院に入院。祖国解放を目前にした1944年3月14日帰らぬ人となった。

 「火葬したら大同江の水に流しておくれ」

 これが彼女の残した遺言であった。

 かつて安昌浩は「金マリアのような女性同志が10人でもいたなら朝鮮は独立しただろう」と語ったという。

 彼女にひどい拷問を加えた日本の検事さえも「お前は英雄だ。いやお前よりもお前を産んだお前の母親がもっと英雄だ」と吐露したという。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

 金マリア(1892〜1944)。ソウル貞信女学校卒業。光州スピア女学校、母校の貞信女学校で教鞭を執る。東京の女子学院に留学中1919年の2.8独立宣言を準備。帰国後3.1独立運動に参加。その後大韓愛国婦人会を組織。亡命地中国、米国でも婦人会を主導。シカゴ大学で博士号取得。帰国後も神社参拝を拒否するなど不屈の意志を見せるが拷問の後遺症で死亡。

[朝鮮新報 2006.9.4]