金子文子没後80年 記念出版 鈴木裕子さんに聞く |
現代にも通じる思想と行動
金子文子(1903〜1926年)没後80年に当たる今年、女性史研究家の鈴木裕子さんが「金子文子−わたしはわたし自身を生きる」を上梓した。山梨市牧丘町で行われた「文子忌」(7月23日)には、文子の生き方に共感する80余人の人々が集った。また、南では慶尚北道聞慶市で07年の開館を目指し、「朴烈(金子文子)記念館」の建設が進められている。いま、なぜ金子文子なのか、鈴木さんに聞いた。 金子文子は夫、朴烈と共に1923年、関東大震災朝鮮人虐殺事件の国家の責任逃れのため作られた大逆事件の被告にさせられて死刑判決を受けたあと、無期懲役になり、宇都宮刑務所に収監。獄中で、すさまじい転向強要を受けたが、それをきっぱり拒否して、26年獄中で自殺した。鈴木さんは獄中死した文子について、「死に急いだという一部の見解について」疑問を呈す。「はたしてそうだろうか。彼女は死に急いだわけではない。天皇制との対決に文字通り命をかけてたたかったのである。『わたしはわたし自身を生きる』ことを実践したと思う」と語る。 没後80年を迎え、ますます文子の思想と生き方は、「時代閉塞」といわれる今日の状況において、輝きを放つかのようだ。 若い頃から、文子の思想に強く魅かれていたという鈴木さん。「文子の生き方そのものが、『反天皇制』であった。あらゆる権威、権力を否定し、人間の絶対平等を求めた」ところが、最も魅力的な点だと語る。
「私はかねて人間の平等ということを深く考えております。人間は人間として平等であらねばなりません。そこには馬鹿もなければ、利口もない。強者もなければ、弱者もない。地上における自然的存在たる人間の価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は、人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべき筈のものであると信じております」(金子文子、第12回尋問調書) 死を覚悟し、獄中で書き残した言葉、幾度となく転向を迫る検事らに屈することなく貫いた文子の絶対平等の思想には、多くの人々、女性たちから共感が寄せられていると、鈴木さんは指摘する。 文子が生きたのは、まさに日本が朝鮮を植民地支配下に置き、普通の日本人は朝鮮人をべっ視、差別し、虫ケラのように思っていた時代であった。その狂気の時代にあって、「左傾」し、朝鮮人のたたかいに共感した文子を理解できる日本人はほとんどいなかった。文子はそうした孤独の中でも、既成の価値観に妥協せず、自己に忠実に生き抜いたのだ。
「いかなる朝鮮人の思想より日本に対する反逆的気分を除き去ることはできないでありましょう。私は大正8年中朝鮮にいて朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への反逆気分が起り、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に湧きます」(同、第4回被告人尋問調書) 文子は1912年秋から、3.1独立運動が起った19年の4月12日まで、朝鮮にいた祖母、叔母夫婦に引き取られた。鈴木さんは「文子を引取った一家は、朝鮮人を見下し、蔑み、賎視し、傲慢そのものであった。それは一家庭だけでなく、日本の植民地官僚や警察官、憲兵たちも同じ。虐げられる朝鮮人たちと同じ目線に文子は立っていたのではないか」と見る。 朝鮮での生活は、文子の手記にも記されているように自殺を思うほど悲惨をきわめた。その中で文子を慰め、人の愛を教えてくれたのは朝鮮の女性であった。 食事も与えられず酷使され、惨めな境遇。そんな文子に「麦ご飯でよければ、おあがりになりませんか」と声をかけ、手を差し伸べてくれた一人の朝鮮女性。「この時ほど私は人間の愛というものに感動したことはなかった」と手記に記されている。 権力に対して毅然とたたかった金子文子。鈴木さんは「文子はたくさんの歌を詠んでいるが、そこには『生活者』の目線で現実をしっかり見たものが数多くある。朝鮮のおかみさんの言葉に涙し、『人間の愛』に感動することのできる文子の感性も、すぐれて人間的なものである」と指摘する。 「文子の思想と実践は、時代を超えて、人間が民族、性別、国境を超えて生きる共生の社会の礎であり、今を生きる私たちに力強いメッセージと勇気を与えてくれる」と力を込めた。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.9.8] |