〈人物で見る朝鮮科学史−18〉 渡来人とキトラ古墳(番外) |
記述に現れる朝鮮への蔑視
古代史の研究が深まる以前まで、中国の大陸文化が朝鮮半島を経緯して伝来したといわれることが多かった。朝鮮を単なる通過点として扱い、その影響を無視しようとする根底には朝鮮への蔑視がある。それは、現在も完全に払拭されたわけではない。例えば、高松塚古墳に関しても総合的に見て高句麗壁画古墳の影響が圧倒的にもかかわらず、女性の服装の細部を取上げて中国の影響を云々するという具合である。キトラ古墳についても、「白虎の頭が北を向いているのはキトラ古墳しかなく謎の一つ」とパンフレットなどで紹介されているが、すでに、在日朝鮮歴史考古学協会会長である全浩天先生がその著書や論稿で、高句麗壁画にもそのような例があると強調しているにもかかわらずいまだ是正されていない。キトラ天文図も、当初は一部の星座の違いから中国、朝鮮とも異なるのではといわれたが、観測地点の特定から高句麗から伝来した原図によるものと結論付けられた経緯がある。 余談になるが、その過程がNHKのドキュメンタリー番組として放映され、その直後に番組で天文図を分析された同志社大学・宮島一彦教授と日本科学史学会でお会した。そこで、キトラ天文図の観測地点は初めから特定できていたのに、番組の構成上そのようになったのではと尋ねてみた。宮島教授は笑いながら決してそういうことではないと答えられ、詳しい分析結果を記した論文を恵贈してくださった。
さて、日本の古代史研究で根強く残っていた植民地史観を是正するうえで、大きな役割を果たしたのは1969年3月に京都で刊行された雑誌「日本における朝鮮文化」である。上田正昭、司馬遼太郎、金達寿らが編者となり、湯川秀樹、谷川徹三をはじめとする著名な学者たちが座談会に参加するなど注目度も高く、数多くの問題提起によってその後の研究を促進させている。 例えば、古代に朝鮮から日本に渡ってきた人たちを以前は「帰化人」と呼んでいた。しかし、「帰化」という用語は確立した国家体制を前提としており、5〜6世紀の歴史記述において用いるのは不適切であり、また自国中心的で他地域からの移住者を貶める語義をもっている。現在は「渡来人」と改められたが、その議論を深めたのがまさにこの雑誌である。 雑誌自体は1982年6月の50号で刊行を終えるが、座談会を収録した4冊の単行本が中央公論社から、論文を収録した3冊の単行本「日本文化と朝鮮」が新人物往来社から出版されている。雑誌の発行人であった鄭詔文先生はすでに故人となられたが、彼が私財を投じて設立した京都の「高麗美術館」は、朝鮮の伝統文化を伝えるユニークな美術館として全国にその名を知られている。(任正爀、朝鮮大学校理工学部助教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.9.8] |