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〈朝鮮と日本の詩人-18-〉 内野健児

 内野健児(筆名新井徹)は1921年に朝鮮に渡り、大田中学校と京城中学校で教諭を務めた。当時の日本人教諭は朝鮮総督府の官吏というのが公的身分であり、ほとんどが皇民化教育の手助けをした。

 しかし健児は植民地政策に批判的な姿勢をもちつづけ、第1詩集「土墻に描く」が治安を乱すとして発禁処分となって日本に追放された。彼はこの詩集をもって朝鮮人民に愛情を注ぎ、連帯の意思をあらわした。

 帰国後はプロレタリア詩人会の創立に参加してナップで活動し、その解散後はプロレタリア詩人の拠り所となった「詩精神」を主宰した。

 44年に永眠し小熊秀雄、小林多喜二らと共に「解放運動無名戦士の墓」に合葬された。

 眼 眼 眼
 きらり きらり
 怨嗟! 呪詛!

 眼 眼 眼
 とろり とろり
 倦怠! 沈滞!

 淀む鈍色の雲かげ
 或はひらめき 或は眠れる
 星!

 怨嗟の星 呪詛の星 倦怠の星 沈滞の星
 鮮人 千万の
 眼 眼 眼

 光、氷の刃を
 わが胸につき刺し
 うそ寒い戦の影をなげる

 (「眼」前文)

 ダダイズム的詩法のこの詩では、朝鮮人民の「怨嗟」と「呪詛」の「眼」が反抗を示しており、「倦怠」と「沈滞」にも植民地支配拒否のモチーフが感知される。「わが胸に−」の一行は入植者としての自己断罪であろうか。(卞宰洙、文芸評論家)

[朝鮮新報 2006.9.15]