〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜F〉 善竹橋 |
鄭夢周の高麗朝への忠節讃える 開城を訪れる人は多くの場合、開城市の中心部に位置する子男山からほど近い子男山ホテルで旅装を解くであろう。子男山は標高104メートルほどの山である。子男山という名は、開城のシンボル松嶽山の息子という意味だという。その松嶽山を背後にした子男山の頂上からは市内の景色が見渡せる。子男山ホテル入り口前方の小川に石橋が架かっている。その石橋こそが世界遺産の候補であり、高麗史上有名な歴史遺跡である善竹橋である。その橋は、高麗王朝に忠実であった名高い学者にして政治家でもあった鄭夢周が李成桂一派によって暗殺された石橋である。また、善竹橋のすぐ近くには、鄭夢周の高麗王朝への忠誠を称えた表忠碑もある。善竹橋や表忠碑を訪ねるには、開城城の南大門の楼門を観てから行く場合もある。南大門から東へ1キロほどの近さで、開城市善竹洞に所在する。 多くの伝説
善竹橋は花崗岩を磨いて造られている。長さは6.57メートル。橋の欄干と欄干の幅は2.54メートルである。善竹橋の旧名は善之橋であったと伝えられている。ところが、鄭夢周が暗殺されたその日の夜、石橋の傍らに青竹が生えたので、橋の名を善竹橋と変えたと伝えられている。それは鄭夢周の高麗王朝への忠節が青竹のように清く、真っ直ぐで屈しなかったからだという。善竹橋にまつわる伝説の一つであるが、橋の石桁の上に殺害された時の鄭夢周の無念の血痕が黒ずんだまま長い期間消えることなく残されていたともいう。 史実としての記録には、善竹橋はどのように残されているのであろうか。1451年、鄭麟趾たちの学者集団が撰進した「高麗史」の崔忠献伝には、善竹橋の名が見えるので、遅くとも1216年以前には善竹橋があったものと思われる。また、1481年、李朝第9代の成宗王の命によって編さんされた「東国輿地勝覧」には、この石橋を善竹橋と記しているので、15世紀、80年代以前に善竹橋が改築されたものと考えられる。 このような歴史を持つ善竹橋の傍らを通るたびに思い出すのは、筆者が初めて開城市を訪れた時のことである。善竹橋に案内してくれた文化財担当の人が説明しながら、突然朗々と謡ったのは時調であった。それは鄭夢周を語り、追慕し、謡った時調であったことは言うまでもない。時調とは、朝鮮の代表的な歌謡形式であるが、この時の私の感激は、「開城の知識人はやはり違うなあ」という強烈な印象であった。善竹橋の付近には、鄭夢周関係の遺跡が多い。そこには、1641年に鄭夢周を賞賛して建立された「表忠碑」や「泣き碑」「崇陽書院」などがある。 権力者の横暴
それでは表忠碑を訪ねてみよう。表忠碑は、善竹洞の善竹橋の傍らにあり、その西側に位置している。表忠碑は、李朝時代に建てられた2つの碑石から成っている。2つの碑石に刻字された碑文は、高麗末期に李成桂一派による政権奪取に反対し、高麗王朝に忠誠を尽くした鄭夢周の忠義を称えている。この2つの碑は、表忠碑閣という碑閣のなかに収められていた。表忠碑閣内の碑は、北側と南側に分けられている。北側の碑は、1740年に建てられたものであり、南側の碑石は、1872年に建てられたものである。2つの碑石は、共に土台石、亀形の台石と碑身、頭部から成っている。ただ、碑身だけが黒色の大理石で、ほかの部分は花崗岩で造られていた。なかでも著しく目立ったのは、大きくどっしりとした亀形の台石であった。それは10トンをはるかに超える大石を彫刻した見事な亀であった。この彫刻された亀を見た人は、みな、異口同音に絶賛したというが、まさしくそうであろう。
とくに北側の亀は、4つの足を力強く踏み、首をぐっと伸ばし、目を大きくむきだして口を開き、内側に傾いた大きな前歯、均整のとれた奥歯、力強く踏む四本の足とその爪、分厚く大きい背中などは、力強く凛として亀の気質と、亀特有の姿勢が鮮やかに表現されている。そればかりでなく、甲羅に描かれた亀甲文様は、細部を省いて大胆に太く浮き彫りにされている傑作であろう。 南側の碑文ははっきりしないが、北側の碑の碑文は、行書体でよく残されている。前面上部に「御製御筆 善竹橋 詩」と刻字された表題で、李朝第21代英祖王の短い詩が記されている。裏面には、英祖王が碑文を新しく補充して1740年9月に、この碑を建てたと記している。それにしても身勝手なのは権力支配者である。李王朝は、鄭夢周が李王家にとって邪魔だとして暗殺しておきながら、この時期になって王についての忠誠を称えるとは、実に権力者の横暴を露骨に語っている。それは、18、19世紀になると、支配層内部で権力支配をめぐって暗闘がくり広げられ、王政の危機が深まったからにほかならない。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天) [朝鮮新報 2006.9.16] |