〈本の紹介〉 長詩 リトルボーイ |
憤怒と鎮魂を込めた詩情 朝鮮には叙事詩の伝統がある。解放直後に北の詩人趙基天が「白頭山」を発表し、南では申東曄の「錦江」がつとに知られている。さらに南では、高銀「白頭山」、李東洵「洪範図」、文炳蘭「東小山の四十雀」、申庚林「南漢江」、金昭影「祖国」なども民主、民族文学の高峰をなしている。広島の原爆投下の日を期して8月6日に発行された本書は、そうした叙事詩の系譜に属しているといえる。 いうまでもなく「リトルボーイ」とは広島原爆の別名であり、それが象徴的に本書の題名に用いられたのである。序詩「エスキモーの詩」を冒頭に、序章から5章までとエピローグで構成される全7900余行のこの叙事詩は、原爆の開発と実験までの過程から投下の瞬間と事後の地獄図に至るまでを、古典的な絵画を思わせるような写実力で描ききっている。故郷を捨てて渡日した同胞、強制連行された同胞たちの塗炭の苦しみの現実が実に丹念に描かれているために、朝鮮人被爆者にとっての原爆のむごさがいっそう鮮烈である。 この長詩の卓抜たるゆえんは、詩人であることの炯眼と強じんな詩精神をもって原爆投下の人類的犯罪に肉薄し「…日本とアメリカがやったという事実」「アメリカも日本も責任を負わなかった」という詩行をもって、米日の同罪をあぶりだしている点である。これは「原爆詩集」の峠三吉も「夏の花」の原民喜もよく書きえなかったことである。 自明のことであるが、物語性の叙事詩を成功させるためには、そのテーマにもとづいて事実関係や歴史的背景を細大もらさず調査して、筋の展開と登場人物の言動にリアリティを付与しなければならない。高炯烈は、5万人ともいわれる犠牲者の大多数の出身地であり「韓国の広島」と呼ばれている慶尚南道陜川郡を訪ねて詳細に聞き書きをおこなっている。それは1987年のことで、名刹海印寺においてこの詩の筆をとることを決めたという。 叙事詩についてさらにいえば、本来が物語であるために、詩を詩として成り立たしめるリズムや音楽性とイマージュの顕現性などが希薄となり、平板な散文調に陥りやすいという創作上の困難があるものである。しかしこの長詩は、硬質なテーマでありながらも、詩としての言語の機能が極限にまで活かされていて、繊細な詩的感覚が織りなす物語詩であることを確実にしている。被爆国である日本の詩人に書けなかったような原爆詩を「アジアの怨讐である日本の中で/朝鮮の子供たちは目が破れ口が裂けて/体に腕がくっついたまま死んでしまった」と、憤怒と鎮魂をこめて書き上げた南の地の詩人の痛恨の詩情は、全詩行に深くしみわたっていて、読む人の胸をつく。 高炯烈は1954年に全羅南道海南郡に生まれ、79年に詩人として出発した。創作と批評社に勤務して「創作詩選」という優れたシリーズを担当した。05年に民族文学作家会議南北作家会談推進にたずさわり治安当局に連行されたことがある。詩集に「大青峯すいか畑」「海青」「日が上り草の露をたたいて」その他があり、現在も旺盛な詩作活動をつづけている。(高炯烈著、コールサック社、TEL 03・5944・3258)(卞宰洙、文芸評論家) [朝鮮新報 2006.9.22] |