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〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜G〉 大興山城と朴淵瀑布

大興山城の東門扯

 開城城の羅城を見学できなかった場合でも、ぜひ、大興山城を訪ねることをお勧めしたい。大興山城は、開城市の朴淵里に位置している。開城市を外敵から守ってきた壮大な大興山城。

 開城市の羅城と結びついている大興山城を見るとき、開城市の歴史と文化の灯火がどのように守られ、継承されてきたかを感動的に体験することができるだろう。いや、そればかりではない。大興山城とその城内の景色がすばらしい。かの金剛山の天下の絶景にならって、大興山城の景「開城金剛」と呼ばれる名勝の地である。それは四季を通じて美しいが、とくに紅葉の季節の景色は、秋の陽光に映えて絶賛されている。筆者が初めて大興山城を訪れた時も良く晴れた秋の日であった。その印象は、まさに「開城金剛」そのものであった。金剛山の時は、広大な空間に広がる峻険な峰々で圧倒されたが、大興山の場合は、鋭く強烈な印象であった。眼前に空を突くように立ちはだかるのは天摩山であった。それに続くのは、聖居山と五冠山の峰々である。周囲を見渡すと山間から走る渓流、大小の岩々の間を流れる清流に影を映す紅、黄色の樹葉に感嘆するばかりであった。岩に腰を下ろして休息しながら絶景に酔いしれていると、古き時代の文人、墨人たちが詩歌を諳んじ、吟ずる心情や墨筆を走らせる心境が良く理解できるように思えた。

屏風のような峰々

西北望桜の烽火場扯

 大興山城は、高麗の都、開城を防衛するために築造した山城である。大興山城は天摩山と聖居山の屏風のような峰々にかこまれ、南側が高く、北側が低い地理的条件を利用して築かれた山城である。大興山城の築城時期は明確ではない。だが、開城市の歴史を記した史書である「中京誌」には、高麗時代に築かれ、重要な役割を担った山城であるとあり、山城内から発見された高麗時代の瓦からも高麗山城であることはまちがいないであろう。

 大興山城には、11世紀初、契丹の侵略に抗して戦った開京市民の英雄的な戦いを始めた外敵との戦いの足跡が刻印されている。大興山城の周囲は、10kmである。そのうち、天摩山を中心とした区間は、険しい絶壁をそのまま城壁にし、稜線と平坦な区間には石の城壁を築いた。山陵線に沿う城壁は、稜線の外側を削り、そこに外壁だけを築き、少し平坦な所や峰を越えたところには、両面に城壁を築いた。また、高い城壁には何の防御施設も置かず、比較的低い所には胸壁を築いた。城壁の高さは通常4〜5メートルであるが、峰を越えるところでは6〜8メートルもある。城壁の上には胸壁を造った。胸壁は現在、東側の城壁と西南側に一部残っているが、おおよそ3.8〜5メートルの間隔を置いて射撃する穴をあけている。「中京誌」によれば、大興山城には胸壁が15〜30個が置かれていると伝えている。大興山城周辺の高い峰々には、指揮所である将台跡があり、山城の西北側には望楼跡が残されている。城内には本営である制勝堂跡や病室、兵器庫、食料庫などの建物跡がある。城内にはまた、壮麗な観音寺や大興寺などの寺院跡がよく残されている。大興山城は高麗時代の首都防衛体系と山城築造技術がどのようなものであるかを語り、その水準の高さを今日に伝えてくれる貴重な歴史遺産である。

 大興山城の東、西、南、北には、大型の門が造られている。その大型門の間には小型の通用門と奥に通じる内門を置いた。これらの門の中で最も保存状態が良く、現在でも雄壮、美麗な形姿を見せているのはこの北門である。北門は、広く知られている朴淵瀑布の傍らにある。北門は、虹のようなアーチを描く通行門を備える高い築台と、その上に建てられた門から成っている。この門楼は、後世に修復されたものである。

 大興山城が備える4つの水門の中で代表的な水門は、何と言っても朴淵瀑布をもつ北側の水門である。朴淵瀑布とは、朴淵という名を持つ滝のことを言うのであるが、「松都の三絶」の一つとし、広く知られた名勝である。三絶とは、三つの優れたものをいう。開城の場合は「花潭、真伊、朴淵瀑布」として有名である。花潭とは、朝鮮王朝第11代の中宗王の時代である15世紀末から16世紀前半にかけて活躍した学者として著名な徐敬徳の雅号である。真伊とはやはり、朝鮮王朝の中宗時代に名妓として知られた著名な黄真伊のことである。美貌の妓生として一世を風靡した黄真伊は、庶民の出身でありながら、聡明で学問を好み、儒学者たちと交流した博識にして才色兼備の女性であった。

飛び散る飛沫

朴淵瀑布

 「松都三絶」の一つである朴淵瀑布は、天摩山と聖居山の間に位置している。17世紀の著名な文章家であり、政治家でもある金昌協は、開城地方を旅行して書いた「松都紀行」において朴淵瀑布について「絶壁から流れ落ちてくる瀑布は、あたかも虚空を駆けるがごとくなり、目を凝らして虹を見てもそれを一言で形象することはできぬ」と述べながら、「飛び散る飛沫は、かろうじて瀑布の傍らに立つ人を雨水に浸し、陽光に映える時は、目を眩ませ自失させる」と記している。

 朴淵という名は、どうして付けられたのであろうか。朴進士という人物がいて、滝のかたわらで笛を巧みに吹いていた。その巧みな笛の音に、竜宮に住むという乙姫が惹かれ、感動して結婚したので滝の名を朴淵と呼んだという。無論、これは単なる一つの伝承にすぎないし、これに類似した話も少なくない。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長 全浩天)

[朝鮮新報 2006.9.30]