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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−14〉 朝鮮女子義勇軍 朴次貞

 朴次貞は、「民族解放こそ女性解放」を信念に朝鮮女子義勇軍を組織し、日本軍と戦うなか崑崙山の戦闘で負傷し散った独立運動家である。

 次貞は国を奪われた1910年、慶尚南道東莢で生まれた。父は日本の植民地支配に抗議して、3.1独立運動の直前に1枚の遺書を残して自決したという。姉は早くに嫁いだが27歳で病死したため2人の兄、文火喜、文昊と弟文夏の4人兄弟となった。寡婦となった母は針仕事で生計を立てていたが、喪服や礼服など夜を徹する仕事で帰れぬときなどは、次貞が幼い弟の面倒を見ながら寒い部屋で身を丸めて寝たという。

反日の嵐の中で

 当時、この地域では反日運動の勢いが強く東莢高等普通学校の反日ストライキはよく知られている。新幹会の中央委員であった兄、文火喜がソウルから帰郷した時などは、東莢の青年たちと学生たちで狭い家はごった返した。こうしたあとには必ず日警の家宅捜査を受けた。

 釜山の日新女学校(現在の東莢女子高等学校)の学生であった次貞はいつもストライキの先頭に立ち、ときには刑事の警備を避けるため老婆に変装し8歳年下の弟、文夏の手を引き暗い夜道を歩いて秘密連絡を取った。警察に目をつけられストライキが発生すると、その主謀者として捕らえられ留置場生活を余儀なくされた。

 次貞は反日学生運動に熱心だった一方、文学少女としても才能を発揮した。校友誌「日新」2号に発表した小説「徹夜」は、植民地における朝鮮民族の苦難な生活を通して朝鮮社会の矛盾を告発したものである。この小説を読んだ担任教師は、自分の給料をはたいて彼女が卒業するまで2年間学費を払ってくれたという。

 また、当時出産するために東莢の婚家に滞在していた女性画家で文人でもあった羅恵錫もこれを読んで感激し、次貞の文壇デビューを勧めたほど。しかし、次貞が好んで読んだものは文学書よりマルクス、レーニン、ベーベルの婦人論といったもので、日新女学校を卒業したのちは東莢の青年会婦女部長を勤め、やがて槿友会のメンバーとして東京、ソウルで活躍する。

光州学生運動

 1929年、次貞は光州−羅州間の列車の中で日本人男子学生が朝鮮人女子学生を冷やかし侮辱したのがきっかけで起きた反日学生運動の扇動者として許貞淑、鄭鍾鳴らと検挙される。

 厳しい拷問を受けながらも最後まで口を開かなかった次貞は、西大門刑務所から釈放されたあとも1カ月間床に伏し高熱と闘った。そうしたある日、次貞に会いにきた青年がいた。2番目の兄、文昊がひそかに派遣した人であった。文昊は既に中国に亡命し義烈団で独立運動をしていた。次の日次貞はソウルに行き、上海に売られていく娼婦たちの中に加わり中国に渡った。

 北京の華北大学を卒業した次貞は、やがて義烈団のリーダーである金元鳳(若山)と結婚する。新幹会で独立運動をしていた兄、文火喜がソウルから中国に亡命したのもこの頃であった。

 こうした状況で東莢に残った次貞の母と弟、文夏は日警の監視と家宅捜査に我慢できず釜山で船に乗り中国へ渡った。しかし文夏は兄、文昊と共に日警の罠にはまり逮捕され、文昊は5年、文夏は未成年と言うことでソウルに送還された。兄の文昊は5年の刑を終え出獄したあとも、またほかの事件で逮捕され西大門刑務所で獄死することになる。

解放後、南で映画化

 1932年、次貞は朝鮮革命軍事政治幹部学校第1期女子部教官として任命され、士官の養成に力を注いだ。その後1936年7月には南京朝鮮婦人会を組織、民族意識の鼓吹と団結を主導した。

 1938年、義烈団の機関紙「朝鮮民族戦線」に投稿し武装決起を促した。そしてこの年の10月からは、朝鮮義烈団の婦女服務団団長として日本軍と果敢に戦っていく。しかし1939年2月の崑崙山の戦いで負傷し、その後遺症がもとで1944年5月、34歳で亡くなった。

 8.15祖国解放後、文夏はソウルのあるホテルの一室で義兄、金元鳳から血のついた姉の軍服と軍帽それに遺骨を受け取った。次貞の遺骨は夫の故郷である慶尚南道密陽郡に眠る。

 次貞の中国での活躍ぶりは解放後、南で2度映画化されソウルと地方で上映されたという。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

 朴次貞(1910〜1944)。15歳で朝鮮少年同盟に加入。日新女学校時代から朝鮮青年同盟、槿友会、労働組合、信幹会などの支会に加入し活躍。1929年光州学生運動時に逮捕される。出獄後中国に渡り義烈団リ−ダの金元鳳と結婚。朝鮮義勇隊の婦女服務団長として抗日戦を闘い、崑崙山の戦いで負傷、その後遺症で死亡。

[朝鮮新報 2006.10.3]