〈生涯現役〉 親子2代で民族教育に尽力する−朴在運さん |
中等教育実施60周年記念の華やかな行事が続く各地の学校。日本で生まれた同胞たちにとって、朝鮮学校は、どんな存在なのだろうか。 ある人は「私にとっての故郷」だと答え、別の人は「いつまでも懐かしい庭」だと語る。また、ある人は「人が人生の大海に乗り出すための母港」だと比喩する。楽しく甘酸っぱいひとときを過ごし、何の憂いもなく人生の夢を育んだ日々。そして、朝鮮人として譲れないものが何なのかを教えてくれた学び舎なのだと。 島根県から上京
朴在運さん(70)。在日本朝鮮西東京商工会会長として、地域の人々のあつい信頼を得ている。とりわけ、民族の心を育んでくれた西東京朝鮮初第2初中級学校への愛着は、人後に落ちない。朴さんが島根県の三瓶山の麓の村から同校に編入してきたのは、小学校6年生の頃だった。 アボジ・朴且文さんは慶尚北道清道郡から30年代に渡日。41年に、5歳の在運さんと1歳の息子を連れてオモニ・黄貞喜さんが夫の元へ。 故郷では食べものに事欠いたことのなかった慶州生まれの母が、後に何度も述懐した異国日本での体験。「日本で最初に買ったのは、どんぶり、壷、お椀を一つずつ。配給であたった醤油もコップ一杯だけ。塩水に薄めて増やしたものだった」。 山村で炭焼きや木の伐採をして日銭を稼ぎながら、6人の息子を懸命に育てたが、暮らしは一向に良くならなかった。 山に登るとき、オモニは幼子をおんぶしながらダンボールで作った靴を履かせていたという。 貧しさと朝鮮人を見下す排他性。「学校に上がったとき、除け者にされたのが悔しかった」。
小学校6年の夏休み。東京から来たイモ(伯母)が、町田に朝鮮学校ができたことを目を輝かせながら話してくれた。 「イモが熱心に勧めてくれたお陰で、そのまま連れられて上京し、当時の東京第12初級学校の5年に編入した」 朝鮮語を学び、同じ朝鮮人の級友に囲まれての弾むような日々を朴さんは昨日のように思い出す。 「学校にはすぐ慣れた。とにかくイタズラばかりして先生に年がら年中叱られていた悪童だった」 1年半後、家族全員が町田に引っ越してきた。兄弟6人が朝鮮学校に通うようになり、アボジは長年西東京朝鮮第2初中教育会副会長を務めた。 「渡日してあらゆる辛酸を嘗めたアボジとオモニだったが、子ども全員がウリハッキョに通うことで、その苦労も吹っ飛んだと思う。そうでなければ、教育会の重責を何十年も担わなかったはず」 弾圧の嵐から学校守った
朝鮮学校に対する弾圧の嵐を何度も何度もはね退けた同胞たちの底力。何よりも子どもたちの未来を断固として守ろうとした熱いたたかいは、たとえ一瞬たりとも止むことはなかった。 「僕は東京朝高の6期生だが、中高6年間の思い出は、激しかった教育闘争の記憶しかない。49年の学校閉鎖令の時には、学校を幾重にも取り巻くほど警官隊が押し寄せてきたことを覚えている。その頃は、みなで西東京第2に寝泊りしながら、東京中高に通った」 朴さんはその後、朝大師範科(2年制)に進み、母校東京朝高の体育教師として戻ってきた。1学年に15クラス、全学生数は3000人以上にも達したころ。「何しろ、朝高には寮もあって、日本各地から民族教育を求めてさまざまな人たちが入学してきた。子どものいる人もいたし、先生の僕より年上の学生たちもいっぱいいたね」 そんな中、朝鮮学校を法的に葬ろうとした「外国人学校法案」や「出入国管理令」に反対して、日比谷公会堂に集い、デモにも何度も足を運んだ。 「アボジ、オモニの背中を見ているから、行かない訳にはいかない。オモニは自転車を引きながら、鉄くず拾いをしても、必ず集会やデモに参加した。どんなに生活が苦しくても、民族教育を守るために、1世の人たちは率先して何でもやった。それは偉かった。今、60年経って、情勢が苦しいからといって、学校のことを後回しにするわけにはいかない」と朴さんはキッパリ語る。 教員、体連を経て、家業のスクラップ業をアボジから引き継いだ。妻の王文子さんと結婚を決めた理由を、「活動家の家に育って、苦労に耐えられそうな芯の強さだったから」と照れながら話した。 朝鮮学校をこよなく愛し続けた父は8年前に、朴さんを民族教育に導いてくれたイモは、数年ほど前に祖国で他界した。 「朝鮮人としての背骨を通してくれて、その魂を育んでくれた学校。これからも、みなで力を合わせて守っていかねば」(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.10.21] |