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〈開城 世界遺産登録へ〜その歴史遺跡を訪ねて〜H〉 観音寺と開城市の仏蹟

 開城市の山城里に位置する「開城金剛」と呼ばれる名勝・大興山城に登れば、山城内の観音寺に参詣することになるだろう。その時は、あの有名な朴淵瀑布と名付けられた滝を観賞してから、その横側の道を登りきると壮麗な大興山城の北門と、それに連なる城壁が目前に現れる。そこから観音寺を目指す。灌木のなかの曲がりくねった山道を約1キロほど行けば、右手の天摩山の麓に位置する巨大な岩の下に観音寺が見えてくる。観音寺は、970年に創建され、1393年には大きく拡張し、その後も数回にわたって補修がくり返されてきた。現在の寺院は1646年に補修した建物である。

渓谷と清流

王建王陵の全景

 観音寺の後方には、豪壮な天摩山が高くそそり立っている。西側を見れば、巨岩に覆われた聖居山をはじめとする山々が、鬱蒼たる樹林に囲まれて立ち並んでいる。前方には深い渓谷から流れ来る清流が遮られて溜まり、亀沼、龍沼などと呼ばれる大小の沼をなしている。これらの水流は、朴淵に至って32メートルの美しくも雄大な瀑布となって落下している。観音寺と朴淵瀑布は名勝の地とされ、「開城金剛」一帯の中心をなしている。

 観音寺は前面が8.4メートル、横面が6.61メートルであるが、よく加工された大石で1.7メートルの下段を築いて、その上に建てられている。観音寺には注目される一つの伝承が伝えられている。その伝承とは、観音寺院後方の壁面に透かし彫りで装飾された門扉に関わった物語である。その透かし彫り門扉の片側の扉は完成しているが、もう一つの門扉は未完成のままであった。なぜであろうか。伝承は次のように語る。

観音寺7層塔

 ウンナという少年がいた。ウンナは観音寺の建造に強制的に動員された。寺の門扉の文様を彫刻しているとき、ウンナは病で臥せっている母親が危篤だという知らせを聞いた。ウンナは急いで担当の僧と監督の役人に知らせ、家に帰ることを願い出た。しかし願いは冷たく拒まれた。間もなくウンナは母が急逝したという知らせを聞いた。こみ上げる悲しみと悔しさにたまりかねたウンナは逆上して、自身の片腕を切り落としてしまった。自暴自棄に陥ったウンナであったが、やがてその悲しみと悔しさは怒りとなって燃え上がった。ウンナは、観音寺の工事現場を飛び出して、虐政に抗して立ち上がった農民暴動軍の隊列に加わったという。

 こうした事情から、未完成のまま残された片方の門扉だけが取り付けられたのである。観音寺の大雄殿前方西側の七層の石塔が建てられている。高麗時代の高さ4.5メートルの石塔がある。みごとなつくりである。ゆっくりと味わい勧賞したい。

乳白色の逸品

観音寺の大理石観音菩薩倚像

 大興山城を訪れたならば、見逃さないでぜひ見て頂きたいユニークですばらしい歴史的文化遺跡がある。

 観音寺の裏手に回ってほしい。洞窟があるが、筆者がその中を見渡して、驚きと共にじっと凝視して感嘆したものがある。それは二つの観音菩薩像であった。この観音菩薩像は、乳白色の大理石によって造られていたのだ。古い時代の大理石像というのは、なかなかお目にかかれない珍しい逸品なのである。

 それにしても、なぜこのような菩薩像がここに納められているのであろうか。名もない深い信仰を持った人が捧げたのであろうか。優しい慈悲の心を持った彫刻家が静かに置いたのだろうか。

 高麗時代には、仏教は護国鎮護の法として崇められたばかりでなく、現世においては、安らぎを覚え、利益を得る教えとして尊ばれたために仏教寺院は全国各地に建立された。その数は5000寺を下らない。都・開京(城)には、寺院の堂塔が林立し、屋根の甍は陽光にきらめき映えた。しかし、繁栄を競い、壮麗な建築美を誇ったその多くの寺院は、993年から始まった北方民族の契丹や1231年からのモンゴル族の侵攻による破壊や戦火や略奪によって廃墟となった。名僧・義天が1099年に創建した国清寺において天台宗の創設を宣布したが、そのゆかりの寺院が契丹族の放火によって焼失されたのがよい例であろう。

過ぎし日の栄光

 また、自然倒壊や災害によって消失した壮麗な名刹も多い。それらの悠久の歴史の余韻を偲ばせる寺院跡や廃墟もよく残され保護されている。開城市長豊郡月古里の玄化寺跡、第21代の恭愍王陵の傍らに位置する広通普済禅寺跡、開城市龍興里の華蔵寺跡と伍龍寺跡などに立つと、過ぎ去った時代の栄光と、失われた文化遺産の足跡を偲ぶことができる。こうした感慨は、世界各地に残る歴史遺産や文化遺産に触れた時の大いなる感動とともに、私たちにとって大切なのではないだろうか。

 今ひとつ考えてみたいのは、遺跡の復元である。観音寺を抱く世界遺産・大興山城の東側に隣接し、信仰の山・五冠山の南麓に位置する、霊通寺跡が復元された意義は大きい。大興山城と観音寺と霊通寺を結んで考えなければならない。(終わり)

[朝鮮新報 2006.11.7]