top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 在日1世を力強く支える「杖(ヘルパー)」−李仁順さん

 日本の植民地支配によって、愛する故郷を追われ、生きる糧を求めて渡日した在日1世たち。すでに多くの人々がこの世を去った。生きている人たちにとっても、その老後は無年金からくる経済苦や基本的人権であるはずの社会保障からも排除され、苦難が続く。

 在日の高齢者を対象にデイケアや訪問介護、さらに子育て支援などの福祉サービスを提供するNPO法人京都コリアン生活センター「エルファ」のヘルパーとして働く李仁順さんは、そんな差別と貧困の中で他郷暮らしを続ける在日1世たちを力強く支える「杖」のような存在である。

 「命からがら日本にやってきて、一生苦労してきたハルモニたちの余生を少しでも優しい日々にしてあげたいとエルファを立ち上げた鄭禧淳所長の情熱と行動に駆り出されて、この世界に飛び込んでしまった」

最年長の受講生

毎日が充実していると話す李仁順さん

 映画「パッチギ」の舞台ともなった京都・東九条の一角にエルファが開設されたのは、今から6年前。介護保険制度がスタートした年だった。

 以前は女性同盟の伏見支部委員長(非専従)としてバリバリ働いていたが、その後は夫の営む工務店で経理などを見ていた。そんなとき、「鄭所長から在日高齢者のための事業に協力を、と頼まれ、迷わず2級ヘルパー養成講座に通い始めた」。38人の受講生の中の最年長、63歳だった。

 娘たちからは「オモニが介護受ける年齢なのに、そんなことやらなくても」と反対された。でも長男に「オモニ、人間は死ぬまで勉強やで。やりがいのあることだったら、やってみれば」と背中を押された。

 その言葉通り、働き始めたら毎日が息つく間もないほど忙しい。これほどやりがいを感じたことはないと顔を紅潮させる。「当初は資金も不足して、何もないところからのスタートだったので、鍋、釜、茶碗、皿など、家から使えるものは全部提供したり。食事の支度をする時も、一品は必ず朝鮮料理を出すように献立も工夫した」と李さん。6年前は20人分位の食事の準備で済んだが、いまでは100人ほどに増えた。

 李さんの自宅は滋賀県大津市の比叡山の懐に抱かれた静かな町にある。春になれば、故郷の味を懐かしむ高齢者のために山菜摘みに精を出すという。「タンポポ、つる人参、イモヅル、セリなどを摘んで、朝鮮風のあえものにして出すと本当に喜んでもらえる」。

休日に次男一家とくつろぐ李さん

 訪問介護の現場では、1世たちの苦境を直接肌で感じて悩んだことも。日本語が読めないことや学校に通った経験がないことで、介護制度そのものを理解できない人もいる。「例えば、食事の世話をしているとき、一人で食べてもおいしくないから一緒に食べようと言われたり、それはできないと言うと、何でやと怒りだす人もいた。ちょっとそこまで車に乗せてと頼まれるが、制度上、それはできない」。

 行けばいつも「パッモゴッナ(ご飯食べたか)」という温かい言葉に迎えられる。「社会の底辺に追いやられて、苦労してきたのに、老いても自分のことより他人をまず思いやる人たちだ」と李さんは涙ぐむ。

 字が読めないために介護福祉サービスの情報にアクセスできない高齢者や申請書類も書けない人たち。在日をとりまく現実の厳しさは敗戦から60年経っても全く解消されていない。「そして、さらに深刻なのは、『親の介護は嫁の役目』と考える封建制の壁。介護を受けることを家の恥だと考える人もまだいる」と李さんは顔を曇らす。

安らぎ少しでも

NPO法人京都コリアン生活センター「エルファ」

 1世たちの暮らしぶりに寄せる思いは、すでに亡き両親への思いと重なる。「慶尚南道昌原から渡日したアボジは私が生後6カ月のときに病死した。母は女一人で子ども5人を育て、艱難辛苦のすえ74歳で亡くなった。両親には何にもしてあげられなかったが、その分、1世たちの老後を少しでも楽にしてあげられるようにしたい」と語る。

 大阪で生まれ、京都に嫁いだ李さんは結婚したあと、女性同盟西陣支部や伏見支部の分会長になった。知り合いもなく、子育ての大変な日々に、地域の女性たちから温かい愛情を受けたことが忘れられないと語る。「家に上げておやつを出してくれたり、子どもの世話をしてくれたり。そんな人たちが今、老後を迎え、家族からも行政からも置き去りにされようとしている。心痛むことだが、まだまだ、私たちがやれることはいっぱいある」。

 孫たちもかわいいが、仕事が忙しくて遊ぶ時間がない。「日々発見のある、今の仕事が楽しくて仕方がない」と破顔一笑する。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2006.11.18]