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朴玟奎・長崎県朝鮮人被爆者協議会会長を悼む

原爆の語り部 20年以上、朝・日の若者に訴え

ありし日の朴玟奎さん

 作家の石牟礼道子さんの「菊とナガサキ」という文には長崎弁でこう書かれている。

−原爆のおっちゃけたあと一番最後まで死骸が残ったのは、朝鮮人だったとよ。日本人は沢山生き残ったが朝鮮人はちっとしか残らんじゃったけん。どがんもこがんもできん。死体の寄っとる場所で朝鮮人は分かるとさ。生きとるときに寄せられとったけん。牢屋に入れたごとして。仕事だけ這いも立ちもならんしこさせて。

 三菱兵器にも長崎製鋼にも朝鮮人は来とったよ。中国人も連れられて来とったよ。原爆が落っちゃけたあと地の上を歩くけんなかなか長崎に来っけんじゃったが、カラスは一番さきに長崎に来て、カラスは空から飛んで来るけん、うんと来たばい。それからハエも。それで一番最後まで残った朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ばカラスが来て食うとよ。どこどこから来たカラスじゃったろうかうんと来とった。カラスが目ん玉ば食いよる。−

 恐ろしい迫力をもった文章である。長崎弁でしゃべる朝鮮人からの聞き書きだ。素朴なリアリティーが人の心に迫るのだと思う。

 その長崎で19歳で被爆し、朝聯、総連の活動家として、また長崎県朝鮮人被爆者協議会会長として活動してきた朴玟奎さんが11月21日、胆管ガンのため死去した。享年80歳。

長崎平和公園の平和祈念の像

 同氏は、79年、長崎朝鮮人原爆被災者協議会の結成時には事務局長として、82年からは会長の重責を担って、同胞被爆者の暮らしや健康を守るために奔走してきた。

 朴さんは1926年10月、慶尚南道密陽郡初同面の農家に生まれ、39年、12歳のとき、福岡県の鞍手炭鉱で働く兄を頼って渡日した。そこの古月小学校高等科2年に編入された後、炭鉱の選炭場で半年働き、大阪の叔父が住む柏原の繊維関係の仕事に就いた。43年、長崎市郊外の小瀬戸に移り、川南造船の埋め立て工事現場で福山組の配給係として従事。朴さんはその頃のことをふり返って「尋常小学校では日本語しか使えず、教育勅語を暗記しないと、水を入れたバケツを下げて教室の前に立たされた。歴代天皇の名や『皇国臣民の誓い』も覚えさせられ、朝鮮語を使うと一銭の罰金をとられた」と語っている。また、福岡の炭鉱では、タコ部屋から脱走者が出たとき、日本人の監督の手先となった朝鮮人によって殴打された。反抗すると、「ナニ、キサマ、チョウセンジンのクセニ!」といって半殺しの目にあったと語る。

 また、朴さんは8月1日の長崎空襲の際にも、九死に一生を得た。「B24機、B26機が長崎三菱造船所や製鋼所、医大病院、大波止の渡し船などを爆撃、私のいた小瀬戸もやられて、即死した人や機銃掃射を受けて負傷した人も多かった」

原爆落下地点に建てられた石碑。この上空500メートルで爆発した

 そして8月9日の運命の日。朴さんは長崎の仮市役所で移動証明の作成中に、原爆に遭った。「一瞬、ピカーッと光って、ド、ド、ドーッと屋根が崩れ、梁や瓦がいっぺんに崩れ落ちた。事務所の中は埃で真っ暗になった。必死になって外に飛び出して防空壕に逃げたら、『ここに入ったらいかん! 出ていけ』と怒鳴られ、あわてて外に飛び出して、すぐ近くの割れた墓石の穴に飛び込んで、米軍の機銃掃射から逃れた」と語った。その後2、3日して、残留放射能が充満する中、不明になったままの飯場の仲間2人を探して、長崎中の収容所を探し回った。

 死んだ人、狂った人、焼け爛れた人、黒こげの人、見るも無残な地獄図だった。やっと稲佐の国民学校の校庭で2人を見つけたときには「顔形はなくなり、髪はちぢれ、足には蛆がわいていたという」。

 かすかに「ムル(水)、ムル…」の声が。真っ赤な口を開けたまま、生きているのか、死んでいるのか。水をすくって口に当ててやると、もう、それっきり。物も言わずに息を引き取ってしまった。起こそうとして手を握ると、肉がくっついてベトベトになったという。

 こうした朝鮮人の被爆体験をこの20年間、長崎の平和公園や平和資料館に訪ねてくる多くの朝鮮学校や日本の学生たちに語り続けてきた朴さん。長崎の反核平和運動の象徴的な存在だった。総連長崎県本部の金清吉委員長によれば、今夏、病に倒れた朴さんを16年間交流を続けてきた大阪中島中学校の先生と生徒たちが病院に見舞い、長い間、体験談を語り続けてくれたことに泣きながらお礼を述べ、早期回復を祈ったという。

 被爆者として辛酸を嘗めながらも、二度とこのような悲惨な歴史がくり返されないよう願い続けた朴さんだった。

 60年間、愛国活動に従事するなかで実に印象深い言葉がある。「私は長崎のまちで生きてきた。キリシタン弾圧や原爆受難のまちで、朝鮮人として目覚めてきた。いわばナガサキの朝鮮を生きてきた」(「被爆韓国・朝鮮人の証言」鎌田定夫編より)と。

 朴さんは朝聯の頃には、長崎朝鮮人小学校の教員を務め、総連結成後は長崎支部の朝鮮新報分局長、宣伝、組織部長、委員長を歴任、また2年前からは長崎県本部顧問を兼任した。苦難の中で愛国活動に挺身した生涯に心から敬意を表したい。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2006.12.5]