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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−16〉 独立運動家の妻 李愛羅

 李愛羅は、独立運動家の妻として波瀾多き道を歩み、ついには日警の悪辣な拷問により息絶えた女性である。

夫婦で教師

 彼女は、ソウルで李チュンシクの3女として生まれた。別名、李愛日羅、李心淑ともいう。

 梨花学堂を卒業後、母校の教師として在職中、忠清南道牙山出身の独立運動家、李圭甲と出会い1914年、20歳で結婚した。

 その後、夫婦共に公州永明学校の教師となった。1917年、夫と共に平壌に移り教職に従事するなか、独立運動平壌代表として選ばれた夫と一緒に乳飲み子の末娘(一男二女中)だけを連れてソウルに戻り、3.1運動に参加、海外で活動する独立運動家を助け募金運動を始めた。

 彼女は夫から全羅北道、忠清南道、水原などの地方に散在する女性たちを集め婦人会を組織するように頼まれる。そして、水原、牙山、公州地方の協会などで大韓愛国婦人会を組織、独立思想を鼓吹し募金運動を展開、ソウルの協会の有力な夫人たちとも手を組み上京、牙県洞に向かう途中日警に逮捕される。この時、日警が背中におぶっていた生まれて100日しかたたない乳飲み子を奪い道端に放り投げ、子どもは即死した。

執拗な追跡

 1921年、釈放されたものの夫はロシアに亡命したあと。彼女はまたも公州で連行され、「夫はどこへ行った? 早く言え!」と問いただされた。警察のひどい拷問により彼女の体は痛めつけられた。ようやく留置場を出た彼女は一時牙山に逃れた。そして、生きるために天安の良垈女学校に就職した。けれど日警は三日と待たず、「お前の夫はどこへ行った、早く出せ!」と声高に責め立てたが、最後まで口を開かなかった。

 要視察人物として心身共に疲れはてた彼女だが、独立運動に専念するため夫の兄・李奎豊のいるロシアへ行く決心をする。彼女は2人の子どもを連れてソウルに行き、そして列車で元山、そこから船で咸鏡北道の最北端、雄基港に到着した。

 しかし、日警の手はすでにここまで延びていた。彼女は船から降りるや2人の子どもと共に警察に連行された。

 調査は特別念入りに行われ、持っていた荷物は根こそぎ検査された。

 警察は、「お前の夫は今どこにいる!? おまえはどこへ何しに行くのだ?」と責め立てながら、殴る蹴るの拷問を加えた。彼女はかろうじて息を吸っていた。警察は彼女が死にでもしたら面倒なことになるとでも思ったのか、しかたなく医者を呼んだ。

夫と再会

 刑事の指示で入って来た医者はビックリした。満身に創傷を受け目の前に倒れている人、その人がほかでもない自分の叔母(叔父の妻)であったからである。折りしも甥・李敏鎬(李奎豊の息子)が病院を開くための許可を得るために警察を訪ねたところ、彼女の診察を頼まれたというのである。2人は驚いたが互いに冷静を保ち知らぬ顔を装った。2日目の往診を終え医者は言った。「危篤状態に陥っています。これ以上留置場での治療は難しいです」。

 彼女は一時宿に移され、一日2回の往診を受けることになった。警察は命を救うことは到底無理だという医者のことばに、逃げる心配はないと思ったようだった。医者はそのすきを見て船便を用意した。そして彼女と2人の子どもをウラジオストクへと送った。目的地に着いた彼女は、やっとの思いで義兄に連絡をとり、2人の子どもを預けたあと病院へ向かった。

 当時夫の李奎甲は、ロシアで朝鮮独立軍士官学校の校長として独立軍養成に力を注ぎながら独立運動を展開していたが、ちょうどその頃中国で日本軍と接戦、多くの死傷者が出る中、三千里もある兄の家へ着いたところ思いがけなく彼女のことを知り急いで病院へと向かった。

 やせ細った手で夫の手を握り彼女は言った。「もうどこへも行かないで。私、膝で歩いてでもあなたを助けてあげるわ」。彼女の目から涙がどっとあふれ出た。

 数日後、彼女は帰らぬ人となった。独立運動家の妻として夫を助け、一心同体となって生き闘った厳しくも気高い生涯だった。

 ふしぎなことに、後に李奎甲が再婚した女性の名も彼女と同じ愛羅(金愛羅)という名で、やはり3.1運動で投獄されたことのある女性だったという。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

※李愛羅(1894〜1922)。

 梨花学堂卒業後、母校の教師として在職中、独立運動家・李奎甲と出会い結婚。夫と一緒に公州永明学校と平壌のチョンイ女学校の教師として勤務。3.1独立運動、「漢城政府」樹立を目指す国民大会開催、大韓愛国婦人会の組織などにかかわり再度逮捕。天安の良垈学校で教鞭を執っていたが夫を探しに行く途中逮捕され拷問の傷がもとで死亡。

[朝鮮新報 2006.12.16]