〈人物で見る朝鮮科学史−23〉 新羅の科学文化(5) |
古代オリエントとの交渉か
高句麗、百済との三国中でもっとも最後に興った新羅が、唐の援助を受けたとはいえ、その二国を滅ぼすことができたのは、それだけ国力をつけたということである。その契機となったのは洛東江沿岸の伽耶諸国を自国の領土としたことであるが、この地方は鉄の生産地でもあり、新羅もそれを手に入れることによって国力を充実させていったのである。 古代史における青銅器、鉄器などの金属加工技術の重要性についてはこれまでも強調してきたが、「日本書紀」に「金、銀、多わなる眼炎く国」と記された新羅に関しては貴金属加工技術についても触れなければならないだろう。なかでも、天馬塚、皇南大塚、金冠塚などの古墳から出土した華麗な金冠や金装飾品などは名高く、図鑑などで見たことがある人も多いのではないだろうか(ちなみに、それらの古墳は慶州瞻星台の北側に広がる「大陵苑」という公園のなかにある)。 新羅金冠の特徴の一つはその形状にあるが、例えば天馬塚の金冠は台輪の真中に4段の「出」の字形をした立て飾りと左右に鹿の角のような飾りが付いている。この形状は「樹木冠」と呼ばれ、ギリシャ・ローマ文化圏でよく見られるという。もう一つの特徴は、そこに翡翠勾玉が飾られていることである。勾玉は朝鮮や日本でのみ出土する装身具で、天然石から作られたものもあるが、多くは瑠璃すなわちガラス製である。新羅の古墳群からは数十万個の瑠璃玉が出土しており、1世紀から3世紀頃の鉄器時代の諸遺跡からは瑠璃玉と瑠璃勾玉の鋳型が発見されている。瑠璃勾玉の起源と生産地については、しばしば論争の的になるが、朝鮮半島で独自に生産されていたことはまちがいないだろう。 また、そこからさまざまなガラス製品へと発展する可能性があるが、実際、新羅の古墳からは多数のガラス製品が出土している。ところが、そのなかには水瓶や杯などシリヤやイランで出土するもの(ローマン・ガラス)とまったく同じ形状のものがある。これは、いったい何を意味するのだろうか? 偶然の一致という可能性もありうるが、やはりローマン・ガラスそれ自体が持ち込まれたか、それを模倣して造ったと考えるのが妥当だろう。であれば、はるか新羅の時代にすでに古代オリエントと何らかの交渉が行われていたということになる。事実、中央アジア旧サマルカンドの宮殿遺跡の壁画には、新羅琴や五弦琴を手にした新羅の使者や貴婦人が描かれているそうである。 東西美術交渉史の研究家として知られる由水常雄氏は「ローマ文化王国・新羅」と評し、同題の本を出版されている。シルクロードに先んじて、どのようにして大陸への道が拓かれたのか、古代史のロマンは尽きない。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授、科協中央研究部長) [朝鮮新報 2006.12.23] |