朝大生ボクサー 国際試合で初メダル 第28回キングスカップアマチュアボクシング大会 |
第28回キングスカップアマチュアボクシングトーナメントが4〜10日までタイのバンコクで行われた。朝鮮の5選手が出場し、銀1、銅2を獲得。その中で朝鮮大学校ボクシング部の愼泰和選手(3年、政治経済学部)がウェルター級で銅メダルを獲得した。在日同胞選手がボクシングの国際大会で朝鮮代表として出場し、メダルを獲得したのは初。朝鮮大学校ボクシング部が国際大会に出場するのも初めてだ。「ここでの経験を生かし、とにかく今は関東大学リーグ2部でいい成績を残したい」と語る。 とてもいい経験
キングスカップ参加への打診が在日本朝鮮人ボクシング協会からあったのは昨年の11月末、正式に決まったのは2月だ。「やるからには勝つ」と大会へ向けて猛練習を始めた。 大会当日、ウェルター級に出場した愼選手は、初戦で日本の石山俊郎選手(日大)と対戦。18−6の判定で勝利した。準決勝となった2戦目は南朝鮮のキム・ジョンジュ選手と戦い、1Rでダウンを奪われ棄権負けとなった。 「とてもいい経験になった。祖国の期待に応えたいという一心で試合に臨んだし、とにかく1勝できたことがうれしい。北と南、海外の選手たちがまた仲がよくて楽しかった。会場の人たちには海外の同胞が代表になり戦っているんだということが十分に伝わったと思う」 同胞社会に貢献を
愼選手は東京朝高1年から3年間、ボクシング部に所属し練習に明け暮れた。実力も折り紙つきだ。高2のインターハイで8強、高3のインターハイでは3位入賞を果たした。 李成樹監督(現、朝大体育学部教員)からは「右拳には同胞たちの期待、左拳には朝鮮民族の気概が込められている」と口をすっぱくして教えられた。その過程で自身も「日本人との試合には負けたくない」と強く思った。 こんな話もある。朝高時代、ブレザーの裏に朝鮮戦争で戦死した李寿福英雄が手帳に残していた有名な詩「私は解放された朝鮮の青年だ…(나는 해방된 조선청년이다…)」の日本語訳を刺しゅうしていたという。愼選手の祖国への熱い気持ちの表れであり、すでにこの時から養われていたことがわかる。 「熱い民族心、ボクシングをやっていても男気というものを忘れたくない」。高級部2年時と昨年3月の強化合宿で祖国のボクシングに触れながら、その熱い思いはいっそう強くなった。そしてその「思い」は同胞社会へと向いていく。「同胞社会のために現場で何か一つでも貢献できることをしたかった」。 専従活動家経て「再挑戦」
朝高卒業後、朝青東京・足立支部で専従活動家として働いた。朝の朝鮮新報の配達から同胞宅への訪問、夜の朝青員たちとの活動、日曜となれば同胞行事やさまざまなイベントの準備など、仕事は山積みだった。 「この期間、ボクシングは全くしていなくて、70キロの体重が100キロ近くまで増えた(笑)」 2年間の朝青活動を終え、朝大に入学。全盛期の体に少しでも近づけようと、ダイエットのつもりでボクシング部に入部。しかし、徐々に練習も本格化してくるとダイエットのためだけには終わらなくなった。 昨年3月、東京朝高ボクシング部出身の同級生から「今年は気合いを入れるから、一緒にがんばろう」と言われ、本格的に取り組んだ。30キロの減量に成功し、今に至る。 ボクシングが「ツール」に
愼選手はリングに立つ前、必ず考えることが2つある。これは朝高時代から今でも続けていることだと話す。 一つは、現在休校となっている母校の東京朝鮮第7初中級学校を思い、もう一つは李寿福英雄の詩を頭の中で読むことだ。 愼選手にとってボクシングとは何かを聞いた。 「好きでやっているのもそうだけど、自分にとってはボクシングが同胞たちを一つにするツールだと思っている。自分がこの拳でリングに立ち、勝つことで同胞たちが喜んでくれるし、貢献していると思えるから。勉強、朝青活動にもしっかり力を入れたい」。何をやるにしても「同胞社会のために」という姿勢に揺るぎはないようだ。 朝大ボクシング部は昨年7月に関東大学リーグ2部校との入れ替え戦で勝利し、1982年の3部昇格以来の悲願を達成した。「今はしっかり2部の座を守っていきたい」と目はまっすぐ向いている。そして次なる目標は、12月にカタール・ドーハで行われるアジア大会に朝鮮代表ボクサーとして出場し、メダルを獲ることだ。 「とにかく自分の手で朝鮮の名を世界にとどろかせたい」(金明c記者) [朝鮮新報 2006.4.20] |