〈Jへの挑戦〜在日サッカー選手の心〜A〉 J2横浜FC MF 鄭容臺選手
「朝鮮学校の後輩たちに夢与えたい」
「朝鮮学校の後輩たちに少しでも広い道筋を作ってあげたい」−横浜FCの鄭容臺選手(28)はそういって屈託ない笑顔を見せた。
川崎フロンターレから今季同チームに移籍。主にDFで出場し、時にはMFとしてもチームに欠かせない選手として試合出場を果たしている。貢献度は高く、豊富な運動量と中盤での幅広い動き、安定したプレーに定評がある。横浜FCは今シーズンJ2で2位(第25節終了時点)につけ、J1昇格も射程圏内だ。
「ウリハッキョからどんどんプロを目指す選手が出てくればいい」と語る鄭容臺選手 在日同胞Jリーガーの中では最年長、実績、経験でも先輩格だが、努力や苦労も人一倍だ。今でこそ華やかなJリーグの舞台に立ち多くのファンを獲得しているが、そのサッカー人生は順風満帆なものではなかった。愛知朝高、朝鮮大学校サッカー部を経て関東社会人リーグの青梅FCで選手生活を送る。大学4年の時、シドニーオリンピック・アジア予選で朝鮮代表候補にも選ばれ、代表チームに合流した。「中、高時代は朝鮮のサッカーに憧れを抱いていた。将来は在日朝鮮蹴球団に入ることを当前のように思っていた」。
当時は朝鮮学校の卒業生がプロ選手になることは珍しかった。しかし、「好きなサッカーで一花咲かせたい」と強い思いを抱き、自らの手でプロの道をつかみとった。
「このままのサッカー人生でいいのか…」と社会人リーグの青梅FC時代、悩みに悩んだ。何かが物足りない。幼い頃から蹴っていたサッカーボールを追いかけ、大好きなサッカーを最後までまっとうしたいという気持ちはふくらみを増す一方だった。「もっと自分の力を試したい」−サッカー選手としての性が思い切った行動に出させた。今までに前例のないことだったが、「朝鮮」籍から「韓国」籍に変えて南に渡った。01年、Kリーグ・浦項スティラーズへ。これがプロへの第一歩だった。
チームDFの主軸として活躍する鄭容臺選手 「有名大学やJリーグからの誘いがあったわけではなかった。国籍を変えたのはあくまで手段であって、当時はそうするしかなかった。朝鮮サッカーが国際舞台から遠のいていたし、蹴球団の解散も重なって、目標を失いかけていた。だから自分で決断した。『もっとレベルの高いところで好きなサッカーがしたい』という気持ちだった。あれがなければ今の自分はここ(横浜FC)にいない」
南ではレギュラーポジションの保障はなかった。とにかく朝から晩までがむしゃらに練習した。テスト生として浦項に入り、2軍南部地区リーグでの活躍が認められ1軍入り。1年3カ月の選手生活で5試合に出場した。「つねに不安との戦いで、勝負への執念、ハングリー精神を体で学んだ」と振り返る。その後、名古屋グランパスエイト、セレッソ大阪、再び古巣の名古屋へ戻り、川崎フロンターレへ。
「朝鮮、南、日本のサッカーを経験した選手はほかにいないでしょ」と冗談まじりの笑顔。そこからは成長への自信がしっかりとあふれ出ている。
この間、「なかなか試合に出られなくてもめげずに、腐らずにやってこられたことが結果となって出ていると思う」と語る。そして、「いろんなチームで、さまざまな選手、監督と出会いプレーの幅が広がった。特に戦う気持ちを前面に出してきた。三浦カズさんもそうだけど、息の長い選手は気持ちがしっかりしている。ピッチの上ではつねに『コリアン魂』を持って『あ、この人は何か違うな』って思われる選手でいたい」。
国家代表への思いもあるが、「今は後輩たちに夢を与えることをしたい」と語る。ウリハッキョで育った自分にとって「当たり前」の思いがこれだ。
「名古屋時代はよく朝鮮学校でサッカーを教えたし、先生に『影響が出ている』と言われるともっとやってあげたくなる。何度か教えにいって、たとえばオフに在日選手らで集まって年に1回でもいいから、朝鮮学校でサッカー教室を開きたい。これは現役のうちにやっておきたいことの一つ」。
これからJで活躍するであろう未来の在日サッカー少年たちに「自らの道を進め」といわんばかりに、闘志を胸に秘めてボールを追いかけている。(金明c記者)
[朝鮮新報 2006.7.6]