〈Jへの挑戦〜在日サッカー選手の心〜F〉 J2ベガルタ仙台 MF 梁勇基選手 |
朝鮮代表として世界を舞台に戦いたい
現在Jリーグには、朝鮮学校出身の在日選手が10人いる。その中の7人を取材したが、残る3人はクラブ側広報から断りの連絡があり、取材できなかった。事情はともかく、今後も日本人やほかの外国人Jリーガーに負けないくらいの活躍を心から期待している。北、南、同胞たちのサッカー熱が上がると同胞社会も一気に盛り上がるからだ。今後も増えるであろう未来の在日Jリーガーへの手本となり、そして、2010年W杯のピッチに朝鮮代表としての姿を見せてくれることを願ってやまない。連載の最後を飾るのはJ2ベガルタ仙台の梁勇基選手。 サッカーで「エース」を意味する背番号「10」。昨シーズンの「30」から今季、「10」を背負いプレーしているのがMF梁勇基選手(24)だ。 昨シーズン、J2リーグで39試合6点、アシスト4。中盤で巧みにゲームを組み立てる活躍で主力へと成長を遂げた。 プロ3年目で中心選手としての自覚が増したのはもちろんのこと、昨年、第4回東アジア大会で朝鮮代表初選出、中盤のトップ下としてマカオ戦3得点、南朝鮮戦では1得点をあげる活躍でチームメイトらにその実力を知らしめた。代表に選出された当時、日本のメディアは、中盤を自在に操る姿から「北朝鮮の司令塔」と報じた。それほど、周囲の注目と評価は高かった。 強い憧れがあった朝鮮代表。「安英学、李漢宰選手の2人がW杯最終予選のピッチに立っている。それを見るとやっぱり自分もって強く思った」。
そんな思いを汲み取り、その道のりを作ったのがほかならぬ仙台の同胞たちだ。リーグ戦のビデオを撮影、編集したテープを在日本朝鮮人蹴球協会が本国に送ったのがきっかけだった。「いつも気にかけてくれる仙台の同胞たちがいるんですよ。試合前は必ず連絡くれるし、家にも招待されて食事もごちそうになったり」。 梁選手は初めてチームに合流し、共に戦った日のことをこうふり返った。「国歌を聞いた時は鳥肌がたったし、国の代表なんだと心の底から感じた。ここでの経験が自分を大きく成長させた」。 泉州朝鮮初級、南大阪中級でサッカーを続けた。大阪朝鮮高級学校サッカー部の司令塔として1999年、同部をインターハイ初出場へと導いた。そして阪南大学サッカー部時代には関西リーグで02、03年連続MVP。経歴こそ華々しいがプロへの道は甘くはなかった。 大学での活躍からプロ入りが有望視されていたが、クラブから声がかからず焦りの日々が続いた。「サッカーの道で生きる」と心に決め、自らベガルタ仙台のテストを受けて入団した。 非凡なサッカーセンスはプロ1年目からピッチの上でいかんなく発揮された。新人ながら32試合に出場し2得点。今季はコンスタントに試合に出場し3得点を挙げ、上位に食い込む原動力となっている。チームは第33節終了時点(18日現在)で4位。2位までがJ1昇格となるため当然気合いも入る。 一方、「10」の背番号に大きなプレッシャーはないのだろうか。
「10番だからといって急にプレースタイルが変わるわけじゃない。でも代表に入ったことでパフォーマンスを下げることはできないし、自分のプレー一つで朝鮮のサッカーが『この程度なんだ』ってなめられるのも嫌だから必死ですね」。 ベガルタ仙台のサポーターは熱狂的だ。ホームゲームともなると約1万5000人が入る。当然、梁選手に温かい声援を送るサポーターも増えている。 「観客席に朝鮮語で書かれた『リャン・ヨンギ』って文字を見るとやっぱりうれしいし、そういう時に日本人選手やほかの外国人選手と一緒の気持ちでプレーしていたらダメだって思う。とにかくJ1でプレーしたい。100%でプレーする自分を見てほしい」 目指すは2010年のW杯出場。「いつまで自分がプレーを続けているかわからないけれどサッカー選手である以上、朝鮮代表として世界を舞台にしたピッチに立ちたい」。 今はJ1昇格が目の前の目標だ。J1での活躍が代表への道につながっていることを自身がよく知っている。「結果をださないとチームでも代表でも信頼されない。それはどこのチーム、国に行っても同じ」−プロとしての自覚を強く匂わしてくれる言葉。冷静でシビアな思考、判断こそが中盤での華麗なパフォーマンスをつねに保つ土台となっているのだろう。いつか朝鮮代表の司令塔として君臨する日が来るのを願ってやまない。(金明c記者、おわり) [朝鮮新報 2006.8.19] |