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北海道初中高の日本人教員・藤代隆介さん 自分の意見持つ生徒育てたい

「ウリハッキョに人生賭けてみたい」

 「人生を賭けてみたい」と自分の居場所を北海道朝鮮初中高級学校に見出した一人の日本人教員がいる。藤代隆介さん(33)。日本各地の朝鮮学校で、唯一の日本人教員だ。同校に足を踏み入れて9年目。現在は体育の授業を受け持ち、サッカー部監督も務める。授業、サッカーの指導は全てウリマルでこなす。日本と朝鮮との間に横たわるさまざまな問題。それらを乗り越え、互いに理解していくことの大切さを、藤代さんはここ「ウリハッキョ」で体現している。

 「アンニョンハシムニカ、藤代イムニダ」

 驚いた。日本人と思って気を使って「初めまして」といったが、その後口から出てくる朝鮮語は「在日」を思わせるほど流ちょうだった。日本人との紹介がなければ、在日朝鮮人の教員と見間違えてしまう。

 「まだまだですよ。日本語で返されると、まだ『在日』の人に認められてないんだって悔しいですね」

 藤代さんは現在、週に20時間の授業を受け持っている。中、高の体育が主で、初級部の体育や中1の日本語も教えている。そして今年4月からサッカー部監督に就任した。

体育の授業で感想文を書かせる。生徒に話しかける言葉は全てウリマルだ

 掲げる目標は「全国大会に出場して1勝すること」。しかし、単にサッカー部監督がしたくてここにいるわけではなかった。そこにはウリハッキョに賭けた熱いハートと並々ならぬ努力、葛藤−さまざまな思いが隠されていた。

 帝京高校サッカー部出身。東京朝高とは何度も練習試合をしていたため、朝鮮学校の存在は知っていた。「本当に強かった。でもなんでインターハイとか選手権に出てこないんだろうって思っていて、それで先輩に聞いてみると当時はまだ差別の壁が高く、出場できないことを知った」。

 高校卒業後はサッカーを専門とするルネス学園・金沢校に選手として入った。そこで出会ったのが北海道初中高卒業生の趙好烈さん(32)だった。「日本の報道なんかを通して正直、『北朝鮮』に対していい印象はなかった。不思議な国だなって。そこで出会った趙に在日や朝鮮学校のこと、国のことまでいろいろなことを聞いたんです。少しずつわかるようになって新鮮だった」。

 藤代さんが同学園広島校で監督を務めていた時、転機が訪れる。

 「趙からサッカー部を強くしてくれって言われた。それで学校を見に行ったら生徒たちの目がギラギラしているんです。印象的でした。この子たちのために何かしてやりたいって。当時の学父母や校長が熱心に勧めてくれたのも引き受けるきっかけだった」

8割が反対

中、高級部のサッカー部員と共に

 1997年12月、同校サッカー部コーチとして招かれた。最初の1年は編入班の生徒と共に「ウリマル」を学んだ。翌年には高3の体育授業、99年から正式に高級部1〜3年の体育授業を受け持った。

 しかし、日本人がウリハッキョの教員になることはそう簡単なことではなかった。「なんで日本人なんかに」と周りの疑心もあったろう。しかしその壁を自らの手で一つひとつ崩していった。ウリハッキョに賭ける情熱が学校全体に浸透するのにそう時間は掛からなかった。毎朝7時半、誰よりも早く学校に来ては校門と玄関の前を掃除するのも藤代さんだ。今ではその人間性に全幅の信頼を置く。

 「当初、家族や親せきとか周りの8割は反対だった。お願いだから行くなって言われた。でもあとの2割が賛成ならそこに賭けてみたい、チャレンジする価値があると思った」

 父と母は他界した。「側で一番応援してくれたのが母だった」。

 00年に結婚。妻のあかりさん(32)の理解と支えがまた大きな力になった。「自分のやることに信じてついて来てくれたことに感謝している」。現在、4歳と2歳の愛娘がいる。

 藤代さんを教員として採用したのが当時、同校校長だった現・茨城朝鮮初中高級学校の崔寅泰校長(55)だ。「彼の熱いハートに絶対的な信頼を抱いた。偏見も全くなかったし、この若者だったら任せられると。一方で学校全体で彼を守ってやらないといけないと思った。結婚式を学校でやったんですよ。北海道初中高は彼の働きで、どれだけ大きな効果を生んでいるかわからない」。

同胞のためって?

 ウリハッキョに来て変わったことがたくさんある。

 「この学校の持っているパワー、魅力はものすごいものがあって一言ではいえない。それまで持っていた考えが払しょくされて、全然違う景色が見えた。どれだけ自分の視野が狭かったかを知った」

 反面、理解しがたいこともたくさんあった。

 「『同胞のためにがんばろう』っていうじゃないですか。サッカーでもそうで、なんで人のために戦うんだろう、自分のためにがんばるものじゃないの? ってね。でも今ではそれがよくわかる。同胞のため、人のために戦うとすごく力がでる。それがもの凄いモチベーションになっているのを肌で実感できる。これからはサッカーを通じて、支えてくれる学父母たちに恩返ししたい」

 朝鮮学校で教員をすることで周りからの声や苦労はないのだろうか。

 「朝鮮に対する軽はずみな発言はできないし、日朝の現状についても勉強している。上面だけでは生徒たちに通用しない。こんな厳しい情勢だから、周りから『お前本当に大変だな』ってよく言われる。けど『本当にそうなんですよ』とあいづちは打たない。自分の意見をしっかり持つことが大切だから」

 藤代さんは99年、「万景峰92」号が小樽から出港する時、北海道初中高の生徒、同胞と共に日本の代表団の一員として平壌を訪問している。その時、テレビ番組のプロデューサーも同行していたという。自身はもちろん生徒も取材も受けた。日本に帰って放送された番組をみてあ然としたという。

 「バスの中でカーテン越しにカメラを隠して外を映していて、いかにも謎の国を潜入取材したかのように放送されていた。日本の報道を100%信じていたのでショックだった。日本のメディアはこういうことをするんだと。そこからメディアに関心を持つようになった」

在日より「在日」

 これからやりたいことは山ほどある。その中でも生徒たちをしっかりとした朝鮮人に育てたいと語る。

 「たとえば4人で食事にいく。その中に日本人が3人、1人が在日。『北朝鮮』に関することで議論になると『そうだよね』ってどうしても流されてしまう在日の人もいると思う。そうじゃなくて自分の意見をしっかり言えばわかる人もいる。同調しちゃだめだし、それを打開して日本人に理解を広げていくのが朝鮮学校の生徒たちの役割でもある。朝鮮人としての誇り、信念と自分の意見をしっかり持った人間を育てていきたい」

 最後にリラックスした表情を見せた。

 「ハプニング続きで、こんなに山あり谷ありの状況って人生でなかなかないじゃないですか(笑)。自分の居場所はここだし、中途半端にはしたくない。生涯をここで過ごすかはわからないけど、とにかくウリハッキョに人生を賭けたい。今まで生きてきた中で自分が一番成長できた期間でもあるし、今がそうですから」

 北海道の学校関係者や同胞たちは藤代さんを見てこういう。「彼は在日よりも在日らしい」。(金明c記者)

[朝鮮新報 2006.11.10]