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カボチャの葉

 もんもんとただもんもんと夏が過ぎ

 老いると短気になるようだ。我慢ができないのだ。

 ある日友人は買い物をし、店員が品物を包むのを見ていて、思わず声を張り上げたそうだ。「私がします。自分でします!」。若い店員さんはびっくりしただろう。

 また、人の名前が出てこない。あいさつをしたが、誰だか思い出せない。ノドに小骨が刺さっているようで、気持ちが悪い。数日後、突然思い出してホッとする。

 友人と会うと、互いに体の話である。やれ、腰が、目が、耳が、病のオンパレードである。

 老いとはまさしく未知との遭遇である。しかし、忘れる一方、生々しく思い出されることがある。夏の日のカボチャの葉のダンゴ汁の香りである。急に食べたくて作ってみた。カボチャの葉がエメラルド色に変わり、ナベから匂い立つ。あの夏が来たと思う。ハルモニが作り、オモニが作り、今思い出しつつ私が作る。胃袋は逆に「民族返り」をして忘れまいとする。

 やがて老いて、子も夫の顔もわからなくなる日がくるかもしれぬ。

 大阪で行われた作家・辺見庸氏の講演で印象深く残っている話がある。認知症の入院患者のハルミさんに看護師が繰り返し聞く話である。

 「あなたの名前は何ですか」「どこから来たのですか」「何をしているのですか」

 自分は誰なのか、どこから来て、どこへゆくのか。この根源の問いに正しく答えられる人がいるのだろうか。(高貞子、作家)

[朝鮮新報 2006.9.22]