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〈解放5年、同胞通信事情−下〉 通信社の草創期−発足当時の困難−

人材不足

1949年2月1日から事務所として使った東方学会会館(3階)。経営局だけを置く(東京都千代田区西神田)

 建設通信の出発は決して順調ではなかった。モールス信号を解読する人を全国各地で捜し、やっと大阪である同胞を見つけ、本人に就職上の好条件をつけるといって通信社に来てもらったこと、日本語の翻訳がうまくできず、朝鮮語にも日本語にも精通した人材を捜し出し通信社に引っ張ってきたことなど初期の苦労は大変であったようだ。そればかりか、組織内部には新聞社があるのにあえて通信社が必要なのかという不要論もあり、機器の移転なども苦労したという。

 日米当局は朝聨系の通信社の発足を好まなかった。民主主義を標ぼうした米軍当局は、通信社業務が認可制ではなく届出制であったために建設通信社の発足それ自体については拒否できなかった。しかしプレスコードをつくりそれで取り締まった。建設通信は創刊当時から記事の内容や具体的な表現に至るまで統制や検閲を受け、削除、訂正を求められた。

 朝聨活動の当時、新亜通信と建設通信の名前が並列に出ている場合がある。たとえば1949年5月24日付の朝聨中央時報の広告では建設通信社(所在地東京都千代田区西神田2−2)と東亜通信社が並列で出ている。また、解放新聞記者が民団の大会を取材中に民団側の暴行を受けたことに関し抗議した1949年6月10日の言論機関共同声明(朝聨中央時報1949年6月14日)でも新亜通信と建設通信が連名で表記されている。

 ※解放新聞、朝聨中央時報、新亜通信、建設通信、民青時報、女盟時報、学同時報、民主朝鮮などの在日朝鮮人言論機関の各代表は、1949年6月10日に朝聨中総に集まり、「在日本朝鮮人言論機関協議会」を設けた。

その他の通信事業

朝鮮中央通信の受信、平壌放送の聴取、日刊「建設通信」の編集などを行った民家(東京都文京区白山)=写真はいずれも朝鮮通信社設立50周年記念冊子より)

 建設通信社以外の通信社は、政治的節操もなしにみな商業主義に走ったという見方がある。それも極端であると思うが、これらの通信社は組織の通信社というよりは何人かではじめた個人的性格を帯びた通信社だったのではなかったか。またある一定の時期には、米国と李承晩寄りで反朝鮮、反朝聨的な報道に重点を置き、結果的には民族の統一と民主政府樹立の妨げとなるような通信を流したことも事実であった。

 建設通信社は、朝聨と民青が強制解散され、同社にも弾圧の危機が迫る状況下で1950年4月1日に株式会社としての法人登記を行った。しかし、日米当局は朝鮮戦争最中の1950年9月30日に建設通信を停刊に追い込んだ。その後に関してはほかの機会に譲ることにして、1953年1月15日に復刊第1号が出たこと、同年3月1日「建設通信」を「朝鮮通信」に改題したこと、社名は1954年1月8日に朝鮮通信社と変更し、登記したことなどを追記する。

 今まで挙げた以外にも、韓美通信社が発行していた日刊「韓美通信」(発行編集兼印刷人崔剛、東京都千代田区九段1−1)などもあった(日本国会図書館にNo2号1947年7月2日〜No 95号1947年11月28日まで所収)。

 朝聨とその傘下の団体はもちろん、多くの同胞が「建設通信」を通して祖国の情勢を身近に受け止め、祖国とともに前進する気概をもった。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2007.2.3]