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長生炭鉱水没事故65周年追悼式 「一日も早い遺骨発掘を」

 1942年2月3日に発生した戦中最大の事故で、朝鮮人130数人を含む183人の犠牲者を出した長生炭鉱水没事故65周年に際して同日、山口県宇部市西岐波海岸道路横広場で追悼式が行われた。追悼式には、追悼碑建立のための運動を続けてきた「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」と山口県朝鮮人強制連行真相調査団のメンバー、南から来た遺族10人と生存者2人、地域の同胞ら約150人が参加。犠牲者の冥福を祈るとともに、日本政府に対し遺骨の発掘などを強く求めた。

「問題解決していない」

犠牲者を偲び、海に向かって献花する遺族ら

 追悼式であいさつした「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の山口武信代表は、日本の首相は戦中戦後の問題はすべて解決したと言っているが、長生炭鉱の犠牲者たちの遺骨がいまだ発掘されていない事実一つをとっても、戦中戦後の問題が解決したとは言いがたいと述べながら、これだけの空き地があるのにもかかわらず、この不幸な出来事を後世に伝えるための碑を建立する場所がないというのは解せない話だと指摘した。

 つづいてあいさつした南の遺族会の金亨洙会長は、「遺族の中でもすでに4人が亡くなった。天国でアボジたちと再会した彼らは、『お前たちはいつまで私たちの遺骨を冷たい海の底に放っておくつもりなのか』と言われているだろう。彼らには返す言葉もない」と述べながら、日本政府に対し一日も早く遺骨を発掘し、故郷の山河に埋葬できる措置をとるよう強く求めた。

 追悼式では、建立される追悼碑に刻む碑文の原案が読みあげられたあと、金亨洙代表が弔辞を朗読。「アボジ、この地に立つ私たちがたとえあなたの子どもではなくても、どうぞ息子、娘だと思って迎えてください。私たちも自分の本当の親だと思ってお参りします。今日は10人の遺族しか捜せなかったけど、次は20人、その次は30人とこの海底に眠っている犠牲者の子孫たち全員がこの地に集まることでしょう…。アボジ、もう安らかにお眠りください。たとえこの地がふるさとの暖かい丘の上でなくとも両肩に背負った60年の歳月とその苦しみを降ろし、安らかにお眠りください」と、涙ながらに遺族らの思いを語った。

 つづいて、遺族らが犠牲者を偲んで祭祀を執り行い、長生炭鉱のピーヤ(排気口)が見える海岸で献花した。

 ピーヤに向かって「アボジ!ー 息子が来ました」と叫ぶ遺族や、献花したあと、「アボジ!ー」と泣きじゃくる遺族。見る者の胸を締め付けた。

 追悼式のあと、市民交流会が行われた。

「涙しか出てこない」

記者会見に臨む金景峰さん(中央)と薛道術さん(右)

 一方、追悼式に先立ち長生炭鉱で強制労働を強いられながらも水没事故の難を逃れ、現在南で暮らしている金景峯さん(84)と薛道術さん(89)の記者会見が行われた。

 金景峯さんは炭鉱で働かされていた当時、現場監督などから受けた暴行の後遺症により現在、右腕がほとんど使えない。

 金さんは、「65年ぶりにこの地を再び訪れ感慨深いものがある。当時のつらい記憶を一人胸にしまってこの世を去らなければならないと思っていたが、こうしてたくさんの人たちに話を聞いてもらえて胸のつかえがおりた。ここで犠牲になった同胞たちのことを思うと、自分だけ生きているのが申し訳ない」と述べながら、「一生懸命働いているときも、飯場で休んでいるときも、いつも日本人に殴る蹴るの暴行を受けた。毎朝、柔道の腰投げで起こされた。飯場に畳はなく板敷きで、毛布は2人で1枚しか支給されなかった」と当時の過酷な生活の一部を語った。

 薛道術さんは、「21歳の時、ここの炭鉱に連行され、4年間働かされた。65年ぶりに来たからといって何かの助けになるわけでもないので、これといった思いはない。ただ、当時のことを思い出すと悔しくて、悲しくて涙しか出ない…」と声を詰まらせながら、「日本人は事故が発生することを知っていたのに、私たちには知らせなかった。せめて5、6時間前にみんなを避難させていればあのような惨事は起きなかった。それを思うと当時の日本人が本当に恨めしい。それだけだ」と怒りを露にした。

 1日に来日した両氏と遺族らは、山口県庁と宇部市役所を訪問し、遺骨の発掘や追悼碑の建立などを求めた。(李松鶴記者)

[朝鮮新報 2007.2.10]