〈解放5年、同胞女性運動−@〉 女性運動の草創期−封建思想の残滓 |
2007年10月に在日本朝鮮民主女性同盟は結成60周年を迎える。解放5年の在日朝鮮人運動を扱う本欄で、解放から約5年間の在日朝鮮女性運動を追って見る。在日同胞女性問題とは、本質において在日同胞女性の自主性を擁護、実現する問題といえる。またそれを実現するために在日同胞女性運動がある。 植民地時代の女性運動
在日朝鮮人の人口中、女性の比率が20%を超えたのが1927年、30%を超えたのが32年である。比率が最も高かったのが37年から39年でそれでも39%台であった。普通、人口構成で男女の比率はあまり変わらないが、同胞の男女構成は植民地時代を大きく反映しているといえる。地域別で、比率が男性よりも女性が高かったのは紡績や繊維関係に従事した者が多かった大阪府と京都府だけであり、そのほかの地域は男性の比率が圧倒した(田村紀之論文「内務省警保局調査による朝鮮人人口(T)」参照)。 同胞女性の境遇は悲惨であった。一般的に在日同胞は「植民地亡国奴」の扱いを受け、初歩的な自由と民主主義的権利もなかったといわれるが、同胞女性たちはそればかりか封建的儒教思想と慣習の強い弊害をもろに受けた。 植民地時代、新幹会の女性版であった槿友会活動や協和会などによる女性たちへの同化、皇民化のための「活動」もあったが、同胞のための真の女性運動は薄弱であった。解放以前から在日同胞女性の中には、民主主義運動、社会主義運動、労働運動、反日運動などに直接参加するか、それに協力した人がいた。しかし、時代的制約や劣悪な条件などで、朝鮮の植民地民族解放闘争や同胞女性の地位向上につながる在日同胞女性運動の実質的な展開はむずかしかった。 朝聯の結成と女性問題 祖国の解放とともに解放の歓喜にわいた在日同胞女性も解放民族になった。解放直後240万人くらいいた同胞たちは祖国へ、故郷へと急いだ。米ソ両大国の占領と複雑な朝鮮半島情勢のなかで、在日同胞は46年3月現在64万人が在留した。 在日同胞は、新しい朝鮮建設への寄与、帰国の便宜、同胞生活の安定と文化向上、世界平和などを目標に初の統一戦線組織として在日本朝鮮人聯盟(朝聯)を結成(1945年10月15日)、在日朝鮮人運動を展開した。同胞女性たちも朝聯結成に参加した。朝聯結成大会や中央委員会の記念写真などには、女性たちもその一員として堂々と写っている。 同胞運動に参加したのは、比較的開明的な家庭で育った女性や兄弟や親せきのなかで同胞運動に関与して彼らの理解を得たり奨励された女性たちが参加した。そのなかには、朝聯中央学院や3.1政治学院で学んだ女性たちもいた。 女性団体の最初の結成は定かではないが、46年2月頃から4月までに朝聯東京の向島、荒川、蒲田、豊島、芝・麻布・赤坂地区に婦女部が設けられた。 朝聯中央の婦女部設置
朝聯結成直後の活動過程で、女性活動の担当部署を置く状況ができた。それは日本軍国主義の暴圧から自由を獲得した被圧迫層の一分野である女性たちの当然の求めであり、運動の初期に朝聯が女性問題を等閑視した反省からであり、女性たちの活動が各地で行われてきたためであった。そして46年1月に開催された朝聯第4回中央委員会(1月31日〜2月1日)で婦女部設置を決議し、女性活動を推進した。 婦女部の行動綱領は次のようなものであった。「1.婦女の完全な解放と男女平等実現、1.18歳以上男女人民の選挙権被選挙権享有、1.一般婦人文盲退治、1.公娼妓廃止、人身売買絶対反対、1.反封建的奴隷的因習廃止、1.婦女の過激労働禁止、1.新生活運動展開、1.世界進歩的民主主義婦人運動に提携、1.言論、出版、集会、結社、信仰の自由」(朝聯第3回総務部経過報告、46年10月)。 婦女部の発足当時の担当者は確認ができなかったが、朝聯第2回臨時大会後(46年2月)には白候男(女性・大阪出身)が部長であり、第6回中央委員会(46年5月)で同部長、次長に朝聯東京本部婦女部長であった金恩順が就いた。「朝聯第4回中央委員会と第2回臨時大会を契機に婦人運動を全国的な運動へと展開する対策がとられた」(民衆新聞1946年4月5日)。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2007.4.7] |