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〈解放5年、同胞女性運動−C〉 女性運動の草創期−共和国国旗掲揚闘争

 解放から5年間の女性運動は激変する状況下で推進されたが、1948年10月からの活動はめまぐるしいほどの展開であった。

共和国創建を盛大に祝う

女性同盟の活動方向をいっそう鮮明にした第6回中央委員会

 共和国創建以後の女性同盟活動は、「共和国に直結しよう!」(朝聯第17回中央委員会1949年2月)とした朝聯の活動の流れのなかで、「われわれは朝鮮民主主義人民共和国の国民としての自覚と誇りを固くすると同時にその実質的発展に寄与できる担い手を育成するために」(第6回中央委員会提案報告及議案1949年6月)と活動の方向性を明らかにして運動を展開した。

 女性同盟は共和国創建慶祝事業を積極的に行った。10月17日の中央慶祝大会では、祖国派遣代表に保留も含めて5人の女性が公表された。日米当局の妨害で実現しなかったが、女性運動は大きな高揚を見せた。

 共和国創建を祝賀する同胞女性の気持ちは、共和国国旗掲揚闘争で如実に現れた。女性同盟2全大会(1948年10月)では、警官が会場に侵入、国旗を降ろせと迫ったがスクラムを組んで離さず決死的なたたかいを展開した。各地の国旗闘争のなかで山口国旗掲揚闘争は抜きんでている。12月3日、朝聯山口県本部結成3周年記念大会は500余人の同胞参加のもと共和国国旗を掲揚して行われた。中途200人を超える警官が弾圧しようとしたが、その話を聞いた女性や児童を含む1000余人の同胞が逆に包囲し彼らを追い返した。12月9日の宇部生活権擁護大会では1000人を超える武装警官の包囲にもめげず、女性同盟支部委員長は自分の懐に国旗を入れて会場から抜け出て、その後警察の執拗な捜査からも国旗を守り抜いた(宇部国旗闘争)。

一人が10人を担当

 文盲退治のための活動は、女性同盟が全組織を挙げて展開した活動であった。

 女性同盟兵庫県西神戸支部六間道分会の経験は貴重であった。分会には一般女性150人が居住、そのうち文盲率は9割、135人に及んだ。講習期間を6カ月・180時間として、国語、社会、歴史、算術、演劇を教えた。努力の結果30人(22%)を文盲から救った。講師は民青の支部役員3人が受け持ったという。30人全員が朝鮮語で教育闘争犠牲者に慰問文を送る水準に達した(第5回中央委員会提案報告書及議案49年2月)という。

 しかし、49年度の目標は高く現状は依然と厳しかった。在日朝鮮女性20万人中、文盲は19万人であり、残りの1万人で19万人を担当しなければならなかった。女性同盟は一人で10人の文盲をなくそうと呼びかけた。

朝聯強制解散につよく反対

 49年9月8日に日本当局は、団体等規正令をたてに朝聯と民青を強制解散させた。女性同盟と同胞女性たちは、合法的かつ冷静に対処しながら、日本当局の朝聯と民青の解散に強く反対し、民族教育をはじめ在日朝鮮人の権利を擁護するために積極的に活動した。

 当日金恩順委員長は、執行を目前に強く抗議したたかう決意を表明している(解放新聞9月11日付)。9月10日には、女性同盟中央常任委員会のアピールを発表、朝聯と民青の活動の正当性と日本当局の反動的策動の本質を暴いた後に、沈着な態度と確信を持って実践する課題を示した。ここでは、非常時に100倍の力を発揮して解散に対する抗議運動、署名運動をすすめること、押収された事務室および事務用品などを抗議してとりもどすこと、挑発に乗らないこと、あらゆる方法を駆使して宣伝活動を展開することなどを呼びかけている。

 女性たちのたたかいは全国的な規模で行われた。一例で、千葉では連日100余人のメンバーたちが集まり課題を遂行するとともに14日には「暴圧反対女性決起大会」を開催、不当な解散処置に対し県当局と首相官邸に厳重に抗議したという。東京でも熾烈なたたかいをすすめたが、女性同盟荒川支部では女性行動隊を構成、号外販売、真相宣伝、基金カンパ、署名運動など勇敢に行った(解放新聞1949年9月23日付)。10月4日には女性同盟全国代表者会議を招集、各地の活動報告とともに今後の活動は生活権確保闘争にもとづいてすべての運動を推進すること決めた。この会議は午後4時に始まり明け方の3時に閉会したという。逼迫感がある。

 朝聯と民青を強制解散させた日本当局は、弾圧の手を緩めずついに朝鮮学校閉鎖令を出し民族教育を全面的に弾圧した。このときから民族教育はあらたな試練期を迎えた。女性同盟などの同胞活動家はもちろん学父母、保護者、学生までもこの処置につよく反対して、民族教育擁護の活動を展開した。

 女性同盟は、解放救援会などとともに在日朝鮮人中央団体協議会の発足(1950年4月)に寄与し、在日朝鮮人運動の中軸となる団体がなかった時期でも運動全般で重要な役割を担った。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2007.5.11]