〈解放5年、同胞女性運動−D〉 女性運動の草創期−女性解放の認識 |
草創期の同胞女性運動は困難を極めた。当時の文献などから解放直後の女性解放問題に対する考え方、女性運動での活動家養成問題、そして何人かの活動家模様を概略する。 女性解放が当時の中心テーマ
朝聯第2回臨時大会(1946年2月)で決められた19項目の活動方針のなかに「M婦人の完全解放と生活様式の改善」、女性同盟第6回中央委員会のスローガンのなかに「文盲者10%退治を3全大会まで完遂しよう!」(1949年6月)などから推察されるのは活動を展開する以前の段階というか、女性の資質問題が重要であったと思われる。それは女性解放と文化啓蒙である。 46年6月、女性同盟の中央機関ができる前の話であるが興味深いものがある。朝聯東京都の各支部婦女部長会議での座談会の一話である。朝聯中総社会部次長(医師)が「栄養素」に関する講義をした後に「婦女解放を正当に認識させよう」というテーマで話し合った。座談会の内容を断片的に拾う。 朝聯次長−婦女解放は2通りある、内部的には家庭婦人としての義務、外部的には封建制打破である、政治権を獲得して各界に進出することだ。荒川婦女部長−自分の職分をすべて守り、主人から解放されるような仕事をしなければならない。朝聯次長−過去は一家庭の女性に過ぎなかった、しかし解放された今日では門の外に出られる。都本部次長−家庭の職務を遂行して国家社会に進出する方法はまずは啓蒙することだ。都本部婦女部長−過去の朝鮮女性はあまりにも家庭的で内面的で堂々と述べることもできなかった、わたしたちは婦女解放の最前線に立ち上がった指導者ではないか。大森婦女部長−朝鮮女性は配給があれば出てくるが講習とか講演とかになると出てこない。中総婦女部次長−ある支部では戸別訪問して主人に証明までもらってもまったく出てこない…(解放週報第2号付録)。 女性運動の活動家群像
女性活動家の養成と活動家の数は深刻な問題であった。朝聯5全大会提出活動報告書(48年10月)の女性同盟の部分では「幹部の絶対不足、幹部(活動分子)を多量に養成できずまた苦労して養成した幹部のほとんど全部が組織面に動員されなかった」と批判して現状を訴えている。女性同盟4中委では委員長、副委員長以外に7人の常任が選出されたが、実際に中央で活動したのは3人であったという。女性同盟の解放5年間は、活動家の養成問題とともに、家事と育児、子どもの教育などを行いつつ女性活動家として行動できる人材の問題がつねに立ちはだかった。 それでも5年間に何人もの女性活動家が輩出されている。 全面的な評価は後世に譲るとして、最初にあげられるのは金恩順ではなかろうか。彼女は65年9月15日に平壌で亡くなっている(享年56歳)。朝鮮労働党中央委員会と朝鮮民主女性同盟中央委員会は訃報で「女性活動家であった同志は生涯の最後まで祖国の統一独立と社会主義勝利のためのたたかいに献身した」と評価した。 金恩順は植民地時代から反日啓蒙活動に参加し、解放後には、朝聯中央で女性運動を担当し、在日本朝鮮民主女性同盟の結成に大きく寄与した。女性同盟の初代中央委員長になったのは38歳の若さであった。その後も委員長として、同胞女性と在日朝鮮人の民主主義的民族権利の擁護と祖国の統一のために活動した。61年に在日朝鮮人代表団団長として朝鮮に帰国した後も朝鮮民主女性同盟中央副委員長として活躍した。在日同胞女性運動の先駆者のひとりといえよう。 また、のちに在日同胞女性初の労働英雄と共和国最高人民会議代議員にもなり、女性同盟委員長を長年務めた朴静賢も代表的な女性活動家であった。1912年7月に朝鮮で出生した彼女は、朝鮮と日本で学び、解放以前から同胞子女に関する教育に携わった。45年10月から東京・荒川の第1朝鮮小学校の講師を皮切りに民族愛国運動をはじめ、46年2月頃荒川支部に婦女部を作って活動した。朝聯中央に婦女担当部署ができる前からである。女性同盟結成時には副委員長(非専従)に就いている。その後育児などで全国的な活動はできなかったものの支部と地域では活躍、50年以降95年7月8日に朝鮮訪問中平壌で急逝するまで中央機関で献身的に活動、在日朝鮮女性運動の発展に貢献した。 そして女性同盟中央副委員長を歴任した姜光淑、金聖根はじめ県本部単位、支部単位などで活動した人たちも少なくなかった。総じて、多くの活動家、同胞女性たちの愛国的熱意と結集した力で模索を繰り返しながら前進したのが在日朝鮮人女性運動の草創期、解放5年ではなかったか。(終わり=呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2007.5.18] |