枯れることのない祖国への思い 空路1800キロ、平壌への道 |
「40年ぶりに四姉妹がそろった」 4月26日から8日間、家族訪問団の一員として、20年ぶりに朝鮮の地を訪れた。10年前に亡くなったアボジの墓参を果たし、1967年と72年にそれぞれ帰国した長女と次女のオンニたちと再会し、四姉妹が一堂に会することが目的であった。結婚して2人の息子を育てながら、無我夢中で暮らしてきた私にとって、祖国を訪問するまでには大きな決断が必要であった。 新潟空港出発
「2年後にはアボジの10回忌だから一緒に行こう」とのオモニの言葉を聞いてからというもの、まだまだ手がかかる次男のことを考えると葛藤の連続だった。 しかし昨年の11月に高級部の修学旅行で、祖国を訪問した長男に託したオンニたちの手紙を読んで、私の心は突き動かされた。なんとか夫に預けて行けるくらい、次男も少しずつ成長してくれたということもあった。 朝鮮に対する日本政府の制裁措置のため、昨年から「万景峰92」号が入港できなくなった状況のもとで、この春から空路での家族訪問の道が開かれると聞いて、三女のオンニと共に思いきって申し込んだのだ。航路に比べて所要時間こそ短いものの、新潟空港からウラジオストクを経由し、平壌へ向う道程は決して楽なものではなかった。けれどもなつかしい町並みが徐々に視界に広がるにつれ、はやる心を抑えきれなかった。 姉妹の再会
若い頃に幾度か訪れた朝鮮の地、20年の歳月が流れても空の青さと澄んだ空気は変わることはなかった。そして、人々の躍動感にあふれる姿、同胞愛に満ちた親切な心と明るい笑顔もそのままだった。57歳と54歳になるオンニたちは、すでにミョヌリ(嫁)とサウィ(婿)を迎えソンジャ(孫)まで見る立場となり、人生の先輩らしく貫禄充分という印象だった。私も突然この歳でイモハンメと呼ばれるなんて、うれしいやら嘆きたいやら、なんだか複雑な心境になってしまった。 24年前に初めて会ったときは、やんちゃ盛りで愛らしい幼子だった5人の甥や姪たちは、純朴で誠実な社会人として頼もしい成長を遂げ、それぞれの家庭をしっかり守っている。 幼い頃から忙しく働くオモニの代わりに、末っ子の私は上のオンニたちに育てられたようなものだ。長女のオンニには食事の世話をしてもらい、次女のオンニには親代わりとなって保育園の卒園式に出てほしいとせがみ、夏休みになれば姉妹で田舎の祖母の家を訪れたりと、4人で寄り添いながら過ごした幼少期の情景が鮮明によみがえってきたものだ。
そんなたわいない昔話や、それぞれの家庭の近況、子どもたちの将来の話にいたるまで、私たちは眠る時間も惜しみながら、夢中になっておしゃべりに興じた。平壌市の郊外、のどかな田園風景が広がる小高い丘の上に眠るアボジも、にぎやかな娘たちの姿を、そしてその家族の明るく和やかな姿を、優しくほほえみながら見守ってくれたことだろう。 私たちに先立って滞在していたオモニと共に、40年ぶりに四姉妹がそろって再会した今回の旅は、夢のような日々であり一生忘れることができない思い出となった。 肉親の情 同行した家族訪問団の中には、最年長の方で92歳、70代から80代にいたる高齢のトンポが半数を占めていた。複雑な搭乗、出国手続きや乗り継ぎのわずらわしさが伴なう空路での平壌行きを、あの方々はどのような思いで決断されたのだろうか。祖国に住む兄弟姉妹、息子や娘、そしてその家族に会いたいという、一途なまでの肉親の情が自身の健康状態をも省みず、大きな勇気となって厳しい道へと向わせたのだろう。 日本政府の朝鮮に対する強硬な姿勢と、総聯に向けての政治的な弾圧や同胞の人権を無視した行為が繰り返される中で、在日の社会はいつになく苦境に立たされているのではないだろうか。 しかしそこにかけがえのない家族が住むかぎり、在日同胞の朝鮮に馳せる思いは枯れることなく、祖国往来の道は途切れることなく続くのだろうと信じたい。(尹敬淑、東京都立川市在住) [朝鮮新報 2007.5.19] |