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〈解放5年、同胞音楽事情−B〉 地方巡演−文化宣伝隊

音楽の大衆化、オペラ公演も

オペラの紹介記事(朝聯中央時報48年11月16日付)

 今回は朝聯がすすめた音楽の大衆化のための活動をみる。朝聯結成後の組織的な地方巡回は1946年2月から始まった。地方巡回(楽団)慰安隊の日程や公演内容を見ると、簡単に見過ごせない貴重な経験があると思われる。

 46年はいまだ敗戦の状態から立ち直っていないばかりか、あらゆるものが不足していた時期である。そのような時期に朝聯は、地方巡回慰安隊を編成して各地で公演を組織していたのである。

 隊は2班で構成され、1班は2月12日から3月26日まで34カ所、2班は3月12日から6月9日までに35カ所をまわっている。紙面の都合ですべてを記せないが、当時のハードな活動を省みるために第1班の巡回地だけを以下に記す。神奈川・鶴見、横須賀、東京・世田谷、長野・長野市、飯田、伊那、山口・下関、小野田、広島・海田市、尾道、府中町、庄原、岡山・新見、倉敷、岡山、津山、兵庫・姫路、明石、神戸、尼崎、大阪(2日)、奈良・高田(2日)、京都(2日)、滋賀・大津、岐阜(2日)、愛知・名古屋(2日)、静岡・静岡、三島であった。他府県への移動日をのぞいてほとんど毎日公演したことになる。今日のように新幹線も高速道路もない頃の話である。当時の活動家の熱意が伝わってくるようだ。

 朝聯はその後もさまざまな困難を乗り切って、文化宣伝隊のようなものをつくり、同胞啓蒙、宣伝活動を繰り広げた。49年2月の第17回中央委員会から7月までも、文工隊の活動は45回、隊員数460人でその公演に12万人を動員したという(解放新聞49年7月14日付)。

 各地で行われていた文化工作運動を全国規模でいっそう積極的に展開するために、朝聯は49年3月24日に「文工隊中央協議会」を発足させている。協議会は、例えば4.24教育闘争1周年記念を迎えるための具体的活動を協議しすすめた。文工隊などの活動は、直接ではないが、今日の金剛山歌劇団、各地の歌舞団活動へ継承されていったともいえよう。

「文工隊の歌」の楽譜(解放新聞49年4月29日付)

 朝聯は音楽教育と音楽の普及にも力を入れた。声専など音楽学校で学んだ人たちは、あちこちの歌唱指導に派遣されたという(「私たちの東京朝鮮第3初級学校物語・証言編」参照)。

 朝聯は初等学院、中学校でも音楽教育にも配慮した。初等朝鮮唱歌集第1巻、2巻(各10万部)、ピドルギ(はとの意味、童謡集オフセット、8000部)、初等音楽(上)(1、2学年用、2万部。いずれも朝聯3全大会報告)、初等音楽(中)(3、4学年用、2万部。朝聯4全大会報告)などを出版して普及した。

 また、東京朝鮮中学校はブラスバンドがつくられ、同窓会でも吹奏楽団を誕生させ、49年8月20日から1週間合宿して練習したという(朝聯中央時報49年7月21日付)。朝聯中央高等学院、3.1政治学院、各地の高等学院などでもカリキュラムの中に音楽を入れて、その普及に努めるようにした。

 朝聯中央(文教部)は古典的作品を使いレベルの高い公演なども組織している。47年4月から古典文学「春香伝」のオペラ化を準備した。「春香伝」は日本では38年に新協劇団が築地小劇場で上演して後に関西、ソウルなどで巡回公演したことがあるという。解放後も民青東京本部の努力で文化座が上演したが、オペラとしては今回が初めてであった。藤原歌劇団とタイアップして公演した。

 台本は村山知義、作曲は高木東六で、配役は李夢龍を金永吉、春香を大谷冽子が演じた。2回に及ぶ試聴会と後援会の組織そのほか諸々の準備をすすめた。予算は200万円であった。オペラ「春香伝」の公演は48年11月20日から1週間、東京・日比谷の有楽座で行われ、大成功を収めたという。

 朝聯は、民主民族文化の急速な樹立と文化創造の育成を期待して、朝聯第15回中央委員会(48年7月)で「朝聯文化賞」を設定した。第1部は文芸で、もちろん音楽分野ばかりではなく小説、評論、詩戯曲、美術、舞踊、演芸も含まれる。第2部は科学部門である。毎年朝聯結成記念日に授与することとしたが、朝聯が強制解散されたので実現することはなかった。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2007.8.9]