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〈解放5年、同胞音楽事情−C〉 民族的アイデンティティー−同胞たちのなかで

張飛、金永吉らに感銘

同胞から愛された張飛

 活動あるところに人がいる。朝聯時代、音楽分野で活動した人物たちも少なくなかった。代表的な人物と断定はできないが文献や証言などを参考にすると、まずは張飛をあげられるのではないか。彼は解放直後に「朝鮮芸術家同盟」をつくり音楽活動を始めた。

 張飛は、朝聯組織と同胞の間に民族の歌を広め、新朝鮮建設をめざす気概を高めるために各地で活躍した。同胞が集まるところどこでも出向き、音楽普及に献身したという。張飛の名をあげると、彼から歌を習ったという人が今も健在である。3.1政治学院の実習生として、1948年7月に大分県中津市の耶馬渓谷にいった人の話である。そのあたりで同胞たちは、豚を育てアメや焼酎を作り生活していたという。その場に実習生は3、4日しかいなかったが、ある日、張飛先生が現れ集められるだけの同胞を集めよといい、その場で「愛国歌」「人民共和国宣布の歌」などを教えたという。地方に回って歌を教え言葉を教え、民族的自覚を促す張飛の活動は実習生にも同胞たちにも強い感銘を与えたという。

 当時の新聞報道には、民青東京本部結成大会は張飛氏指揮下で力強く「民青歌」「解放の歌」を歌い(解放新聞46年11月20日)、朝聯主催の3.1運動29周年記念大会では「金永吉氏指揮で朝鮮中学ブラスバンド演奏」(解放新聞48年3月5日)などと報じている。

「わが民族の誇り、世界的テナー歌手」と言われた金永吉(写真はともに「在日本朝鮮人綜合写真帖」=朝鮮民報社発行から)

 「わが民族の誇り 世界的テナー歌手」といわれた金永吉もまた名を馳せた人である。金永吉は、永田絃次郎の名で戦時中は軍歌も歌い日本の侵略戦争に利用されたともいう。しかし朝鮮解放後彼は過去の行為を悔い、心を改めたという。

 金永吉は朝聯第13回中央委員会(48年1月)閉会直後の懇談会に参加している。そこで3曲を歌い絶賛の拍手を受けた。

 金永吉は当時瀕死の病床からようやく再起したばかりで、また反動的団体からの誘惑をはね退けて、枝川町の一隅で苦しい生活を送っていたという。懇談会の場では「わが民族の芸術家をわれわれの手によっていかせよ」の声が高まりその場で彼への数千円余りの募金が集まった。

 金永吉は、今後どんな誘惑と苦難が襲いかかろうとも祖国建設を担う正しい芸術家として信念を堅持し、その万分の一の役割を果たそうと覚悟するものであると決意を表明した(東京朝聯ニュース、48年2月18日)。金永吉は北への帰国事業が始まった後帰国する。金永吉は4期、張飛は5期の朝聯中央委員になっている。

 朝鮮留学生として「大正年度」(1912〜1925)で最初に上野音楽学校を卒業したのは3人という。そのうちの一人が金文輔である。彼は日本人との接触が多かったが一度も名前を変えずに同胞のために歌ったという(在日本朝鮮音楽協会機関紙「朝鮮音楽」58年9月9日)。彼も45年12月の朝鮮独立祝賀大演奏会に出演している。

音楽団体の活動

 47年当時、既成の文化団体として、在日朝鮮人文化団体連合会(文連)と在日朝鮮人文化団体総連盟(文総)の二つの団体が在日朝鮮人の文化団体を代表すると自称しながら、その内容に於いては民主文化活動を離脱する方向にあった(朝聯第5回全体大会提出報告書)。

 47年12月26日に第1回文化人懇談会を開催、42人が参加。そこでは文化人活動と組織に対する峻厳な批判が行われ、在日文化人の再組織と新たな出発を期して準備委員7人が選出された。48年1月17日に在日朝鮮人文学会が結成された。文化活動における単一組織の結成で、演劇、音楽、などの他部門の単一組織化が注目された。

 その流れの中で、在日朝鮮人音楽家諸氏によって音楽同盟設置の準備が進められたが、48年3月20日に在日朝鮮民主音楽同盟の結成をみた。結成大会が開かれた朝聯東京本部講堂では、中総議長団韓徳銖、朝鮮文学会李殷直の祝辞、そして報告、活動方針討議などが行われ、結果@民主主義民族文化の建設をはかる、A過去における芸術至上主義的傾向を清算し、人民の音楽を高揚させるとのスローガンを決定した。また役員として書記長に尹翰鶴、研究部代表に金敬在、演奏部代表に金永吉を選出して、閉会後には音楽同盟員によるバイオリンと歌曲の演奏会を開いたという(東京朝聯ニュース、48年4月10日)。

 5全大会提出報告書によれば、上記二つの単一団体の構成員は、既存文化団体の中でも良心的で愛国的要素にあふれた人たちで構成され民族文化樹立と音楽普及に努力している。

 解放5年の朝聯の音楽活動は、揺籃期の制約性は否めないが、同胞社会を勇気づけ同胞運動を高揚させる上で大きな役割を担い、その後同胞の間で民族的アイデンティティーをベースに、民族文化活動を発展させていく貴重な経験となったといえよう。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)=終わり

[朝鮮新報 2007.8.18]