〈手記〉 「分会長になって」 |
「地域に馴染みたい」
日本学校出身の私が、子どもたちをウリハッキョ(朝鮮学校)に入学させてからはや15年が経ちます。 ウリマル(朝鮮語)がわからず、6年くらいは戸惑いでいっぱいでした。ハッキョになじめず知り合いもおらず、バザーや納涼大会などの行事があるたびに、不安な気持ちを抱きながら参加していました。 そんな時、当時女性同盟田島2分会の分会長をしていた梁孝代オンニ(お姉さん)が私の家に訪ねてきて、「田島2分会の集いがあるから、来られたら来てください」と声をかけてくれました。 子どもをウリハッキョに入れても地域に誰も知り合いがいなかった私は、ウリハッキョと地域になじめるきっかけになればと思いながら、「勇気をふりしぼって」集いに参加することを決意しました。 集いの当日、私はアッパ(夫)に「アッパ! 私、子どもをウリハッキョに入れても友だちもでけへんし、分会長に声をかけられたから、今日田島2分会の集いにいちかばちか参加してみようかなあ」と言いました。アッパは、「行け、行け」と悩んでいる私を後押ししてくれました。 大げさと思われるかも知れませんが、その時の私はウリハッキョと地域になじみたくて必死でした。 集いに参加したことがきっかけとなり、私にも友だちというかオンニ≠ニ呼べる間柄の人ができるようになりました。オンニ≠ニいう呼び方について、私は以前からハッキョで知り合いのオモニたちが「オンニ」とか名前で呼び合っているのを、とてもうらやましく思っていました。 それ以降は、海水浴や温泉、忘年会などなど、地域で催される集いにとても楽しく参加できるようになりました。集いに参加している時、ウリマルがわからない私に通訳してくれるオン二や、ウリマルの話を簡単にわかりやすく説明してくれるオンニ…。田島2分会は私をサポートしてくれる人でいっぱいです。 「仲むつまじい分会」に 今回、「世代交代」ということで長らく務めてきた梁孝代オンニから、未熟な私へと分会長の職がバトンタッチされたのですが、最初は自信がありませんでした。でも、分会長の職を受け継ぐことが一番重要だと感じ、するべきことなどは二の次でまず引き受けることにしました。 まだ分会長の役割などもわからず、周りからのサポートだらけの私ですが、ウリマルがわからなくても分会長として参加するべき行事にはできるだけ何でも参加するよう心がけました。 アッパがやっている青商会の活動や、分会の活動を通して思ったのは、今の若い同胞の中で、「ウリハッキョは子どものために必要だけど、支部、分会はどうなんだろう? 何をしてるかわかれへん」と支部や分会を遠ざけ、会費を徴収するのもなかなか難しい状況もあるなあ、ということです。 しかし考えてみると、支部や分会が動かなくなったら、誰がバザーや納涼大会の券を売ったり、当日の準備から販売までやったりするのでしょうか? ハッキョのオモニ(お母さん)会やアボジ(お父さん)会と一緒に力を合わせ、地域全体の協力があってこそウリハッキョにより多くの支援をすることができるし、チョソンサラム(朝鮮人)≠ニしての子育てなどもサポートできると思います。 最近、田島2分会は若い同胞たちが引っ越してきて、これまでの1世2世の町から3世4世の町に変わりつつあります。 私は分会長として、分会の委員たちと意見を交わしながら分会の活動に一人でも多くのオモニたちが気安く参加できるような、「仲睦まじい女性同盟分会」を作っていけるようがんばりたいと思っています。 もちろん、私一人ではまだまだ難しいので、先輩オモニや若いオモニたちの [朝鮮新報 2007.8.20] |