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〈解放5年、同胞美術事情−上〉 揺籃期−初期の活動

悩み模索しながら作品制作

 新羅時代の率居や18世紀に活躍した金弘道、朝鮮王朝末期の張承業など朝鮮が誇る画家がいたと思うが、解放直後の在日同胞活動の一分野として美術活動の整理も必要だ。

 しかし、朝聯の諸活動の中で文化活動、そのうちの美術活動、つまり解放5年の在日朝鮮人の美術活動を整理できるほどの資料が筆者の周辺には少ない。朝聯当時の各文献とともに「在日朝鮮美術家画集(非売品)」(1962年1月1日発行、編集者白玲、発行者金昌徳、発行所在日本朝鮮文学芸術家同盟美術部)、「在日コリアン美術の軌跡」(李繻M朝鮮大学校教育学部美術科助教授)などを参考に現時点での所見を記してみる。

留学生が主体

解放後初めて出た「在日朝鮮美術家画集」(在日朝鮮人歴史研究所所蔵)

 解放以前の在日朝鮮人の美術活動は、主に日本に留学に来て学んだ人たちが中心であったと思える。李助教授の調査によれば東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業したのは47年に卒業したものまでで64人であり、中退者まで含むと89人に及ぶ。帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に多くの朝鮮人学生が学び、太平洋美術学校、川端画学校などで美術を学び研鑽したものも少なくなく、43年の在東京美術協会第6回展の資料には会員が300人を超えたという。

 彼らは帰国して、日本帝国主義に追随した画家活動あるいはプロレタリア文学活動を展開するか筆を折るか、または日本で制作に励んだ。解放直後、多くの在日同胞は帰国したが、朝鮮半島の複雑な状況を反映してそのまま南で活動するもの、北に行き活動するもの、そして日本に在留したものなどとなった。

 さて、朝聯の文化方針と日本にいた同胞画家たちの活動ぶりはどうであったか。

 解放直後の強力な同胞組織であった朝聯は、文化活動方針をある程度明確に謳っている。例えば、朝聯第4回全体大会決議では、日本帝国主義残滓の掃蕩、封建主義残滓の清算、国粋主義の排撃、民主主義民族文化の建設、朝鮮文化の国際文化との提携を明記し、これは8.15以降現段階において朝鮮民族文化革命の当面する課題であり、在日朝鮮人文化運動もこの一翼を担当していると強調している。

解放後初めて出た「在日朝鮮美術家画集」(在日朝鮮人歴史研究所所蔵)

 その中身は、1、民主主義民族文化理論樹立のための活動。わが古文化、新古文献の収集、調査研究、発表普及、継承の活動を続けなければならない、2、文化大衆化のための活動、3、文化交流のための活動、4、生活文化のための活動、5、文化人組織と文化団体に対する指導活動(朝聯中央時報47年10月31日)である。文化活動の方針はしっかりしていたといえる。

 また、朝聯は第4回文化部長会議(48年6月25〜28日付)で文化交流に関して朝鮮古典美術展覧会を開くことを決めているし、朝鮮古文献調査蒐集のために活動を進めることも決めている。その一環として、金玉均先生に関する文献を保存しているという栃木県佐野市との交渉の結果、書籍、書画、美術品など朝鮮文化に必要なものいっさいを朝聯中総が譲渡を受ける確約を得ている。

 朝聯の傘下団体であった民青も、「創意性ある文化活動」を展開すべきだと呼びかけている。大衆は文化と娯楽を求めているとして大衆自身が多面的な文化活動を下から自分の問題として展開するようにすることが大事である。民青の班がそれぞれの性格と程度に応じて政治、経済、社会、技術、文学、映画、演劇、音楽、ダンス、美術、体育、衛生、出版、弁論、合唱など多面的な文化活動を諸行事と闘争を契機として水準を高めていくことが大事だとしている(民青時報48年4月25日付)。

最初の美術団体

 現在記録にある解放後の同胞の美術団体は、朝鮮美術協会である。上記「在日朝鮮美術家画集」によれば、47年に結成、会長李哲州、参加者金昌徳、白玲、表世鐘、金昌平、朴燦根など。この時期は解放直後のことでもあり、具体的事業としては、啓蒙運動が主であり、左・右を網羅した在日朝鮮文化団体総連合会(略称文連、70余団体)に加盟した。美術協会は展覧会なども企画したが、相互親ぼく団体の枠を超えることができなかったとなっている。

 ほかの資料などを参考にすると、美術関係者たちは民主主義民族戦線に呼応して当時の「朝鮮人民美術社」と「国際画劇啓発協会」を合流、朝鮮美術協会を誕生させた。協会は啓蒙宣伝にも力量を傾注し、一般同胞が期待した美術展覧会も開催する計画の下に鋭意準備中であったという(文連時報第4号、47年10月15日付)。合流する前の美術団体は在日朝鮮美術界の「前衛」とも言われたらしいが、数カ月にわたる意見交換の結果各自の利害を捨てて団結した。また、「協会には在庫の作品も多く今後の人民美術運動への寄与」を期待したそうだが作品は今は行方が不明である。

 なお朝鮮美術協会の結成月日は明らかでないが、文連時報第4号に紹介されていることから47年10月以前であったと思えること、そして同紙第9号(48年8月5日付)の「7月1日を以って文連専門別組織の協議体」として出発したとの記録から、結成月日は7月1日が有力と考えられる。

 「在日朝鮮文化年鑑1949年版」には、朝鮮美術協会のほかに朝鮮画劇協会、人民美術社があるとしているが、画劇協会の許景福、人民美術社の李仁洙など代表者も朝鮮美術協会に参加しているので美術協会が主な団体といえる。

 解放後の民主主義民族戦線をつくる在日朝鮮人運動の流れの中で、志のある在日同胞美術家たちは悩み模索したと思える。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2007.10.20]