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〈生涯現役〉 女性同盟一筋に歩いた60年(上)−孫永姫さん

「泣き虫」から「「女性闘士」へと成長

 今年10月12日、在日本朝鮮民主女性同盟は結成60周年を迎える。その第1回大会が47年10月12〜13日、東京・浅草公会堂で開かれた。

 女性同盟京都府本部の孫永姫顧問(76)は、この大会にほかの4人の代表とともに16歳の時に参加した。「東京見物に行こうと誘われて…。セーラー服を着て参加した。新幹線も何もなく、そう簡単に東京には行けない時代でした」と目を細めた。参加してみると、「全員がウリマルで演説して、女性たちの姿にはまばゆいぐらい迫力があった」と、遠い日の記憶を手繰り寄せる。祖国解放から2年。植民地支配のくびきから解放された女性たちが、組織の創建に向けて各地から続々と集まり、力を一つに結集したのだった。

夕張炭鉱で出生

半生について語る孫永姫さん

 北海道の夕張炭鉱で働く両親の下、1931年、二女として生まれた。江原郡春川市出身の父は、20年、日帝の収奪が激しくなった故郷を離れ、満州から夕張へ。母は舅と2人の子どもとともに、父から送られてくる仕送りに頼りながら細々とした暮らしを続けていたという。

 それから10年、舅も亡くなり、母は子どもを連れて夫の住む夕張炭鉱へ向かった。翌年、孫さんが生まれた。亡国の民の悲しさか、37年に大きな落盤事故にあった父は、大けがをして入院生活をするハメに。しかし、鬼のような日本人監督に「早く仕事をしろ!」と怒鳴られる毎日だったという。このままでは命も危ないと家族5人を連れて夜逃げ同然に京都に移り住んだ。孫さんが6歳の頃。いまでは夕張炭鉱の記憶は「白い雪がいっぱい積もっていたことくらいしか覚えていない」。

 「京都に来たのは、故郷の春川に帰りたいという父の一念からだった。舞鶴から船に乗れば、故郷はすぐそこにあるというのが口癖だった」

女性同盟結成大会にセーラー服で参加した孫さん(右から2人目、東京・浅草で)

 京都での暮らしは、楽ではなかった。「1世の同胞誰しもがそうであったように、土木工事、ロバ引き、養豚業、日雇いなど、転々と職を変える生活だった。兄妹5人は、植民地時代だったのでやむをえず日本の学校に通った」。

 14歳、中学2年生のとき、祖国解放を迎えた。帰郷の準備を進める父から、「故郷に帰っても言葉がわからなかったらどうにもならないから、朝鮮語で自分の名前でも書けるように、朝聯の京都府本部の職員として働くように言われ、働き始めた」。

 日本の学校に通っていたので、朝鮮語も話せず、書けない。そんな孫さんのために、職員たちが懸命に言葉を教えてくれ、日本語を一回使うたびに罰金一円を取られたのも今では懐かしい思い出だ。

共和国国旗を死守

 はじめは父から勧められ、半ば強制的に参加した運動だったが、やがて孫さんは自立する女性として成長していく。

朝聯高等学院第2期卒業式(2列目左から3人目が孫さん、46年9月、朝聯京都府本部青年会館屋上で)

 46年9月からは京都・祇園石段下にあった朝聯高等学院に入学、朝鮮語や祖国の歴史、経済学などを学んで、朝鮮民族としての心を育んでいった。そして、この体験が女性運動への参加を促す大きな転換点となったのだ。そんな経緯を経て、47年の女性同盟結成大会への出席が実現した。

 翌年、48年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が創建を宣布。京都市内でも多くの同胞たちが参加して、朝鮮の国旗を掲げて慶祝大会を開いていた。「その時、日本の警官隊とMPが押し入り、国旗を取り外そうと策動したので会場は大混乱。その激しい闘いの中で、国旗を守り抜いた同胞たち。いま、ふり返って、一番印象深いできごとだといえる」。

 どんなことがあっても、自らの祖国を死守しようとする在日同胞の気概と誇りが、当時の日常にはみなぎっていたと思う、と孫さんはふり返る。

 米国による朝鮮戦争の準備と勃発によって、在日同胞や組織への凄まじい弾圧の嵐が吹き荒れていった。あれほど故郷への帰還を望んだ父の夢も絶たれた。

 「それでも父はあきらめず、どうしても帰ろう、北に帰ろうと言うんです。そこには金日成将軍がいるからと…」

 父の志は叶わなかったが、祖国と学校を死守する連日の闘いの中で、最年少であだ名が「泣き虫」と呼ばれていた孫さんは女性闘士として、大きく成長を遂げていった。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.1.13]