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〈生涯現役〉 女性同盟一筋に歩いた60年(下)−孫永姫さん

弾圧はねのけ怯まず前進を

祖国解放15周年記念京都朝鮮人大会で(左から2人目、円山音楽室)

 20世紀の朝鮮半島は、国を奪われ、民衆はそれぞれ絶望的な運命に翻弄されながら、不屈の精神で闘いぬいた。女性たちの道のりもまた、苦難の連続だった。

 孫永姫さんもそうした過酷な人生を歩みながらも、解放を迎え、新しい生活に踏み出した。

 22歳の頃。大きな転機が訪れた。女性同盟中央の常任として東京行きが決まった。「嫁入り前の娘が一人で東京に行くとは」。母は嘆き、反対したが、「これからは女性も学んで、がんばらねば」という父の後押しを受けて、単身、上京。当時の副委員長の家に寝泊りしながら、組織部長として職務に励んだ。

 「新宿や池袋でバーやキャバレーを経営する女性経営者たちに財政の支援をお願いに回ったのもドキドキの初体験だった。店の裏口からサッと入って、じゃまにならないようにね。とても豪胆な人たちだったが、女性運動にも共感し、快く引き受けてくれたのが忘れられない」

女性同盟中央の故朴静賢委員長(左から4番目)と共に(京都朝鮮会館の前で、60年)

 見るもの全てが瑞々しく、やりがいのある日々。しかし、好事魔多し。思いがけないことが孫さんの前途を阻んだ。日本各地に出張も多かったその頃、関東から関西を周って、岡山、山口、広島へと向かう途中で過労のため、喀血して倒れてしまったのだ。女性同盟山口県本部委員長が急遽、病院に連れて行ってくれたが、翌日には広島で重要な会議があり、休むこともできなかった。

 結局、孫さんは同胞の家で病に臥すことになった。

 「その時の同胞の献身的な看護は50年たった今も忘れられない。あるハルモニは奈良の東大寺の『お水取り』の日にわざわざ広島から奈良まで行って、私のために『お水』をもらってきてくれ、『この水を飲めば早く直るから』と励ましてくれた」。肉親にも及ばぬ親身な看病によって、やがて健康を回復することができた。

 その後、京都の実家で闘病生活を送ったが、東京での仕事は無理だということで、結局京都に戻った。「東京駅のホームで涙ながらに見送ってくれた同僚たちの姿が今もまぶたに焼きついている」と孫さん。

「パプ、モゴンナ」

帰国協定調印祝賀京都朝鮮人大会で(西京極グラウンド、59年8月15日)

 その後、ストレプトマイシンなどの特効薬のおかげで完治した孫さんは、京都の女性同盟の活動家としてバリバリ働きだした。総連結成の年には、父が気に入った青年と結ばれることに。24歳。夫は総連右京支部組織部長だった林春基さん(当時30)。すでに病床にあった父は「お互いに思想が通じ合えば、力を合わせて生きていける」と言い残し、二人の結婚式を見ぬまま他界した。

 その後、2人は父の願い通り、力を合わせて活動に挺身し、3人の子どもにも恵まれた。孫さんは女性同盟京都府本部総務部長を経て、73年から93年まで委員長を務めた。

 「どんな時でも同胞たちが、まず祖国と組織を先に考え、尽くしてくれた。家を訪ねると『パプ、モゴンナ』と声をかけてくれて、『はよ上がり。一緒に食べよ』と勧めてくれた。そうした同胞たちの深い愛情と団結した力で、朝鮮学校を同胞たちの力で建て、それを1世から2、3世へと受け継ぎながら60年守り通したことも私たちが胸を張れることだ」と語る。

主席への深い感謝

女性同盟結成30周年を祝う代表団メンバーとして最高人民会議第6期第1回会議に参加(前列左から2番目、77年11月)

 振り返れば人生のほとんどを女性同盟と共に歩んできた孫さん。在日同胞への繰り返される弾圧の嵐をくぐり抜け、今も顧問とはいえ、第一線で踏ん張るその原動力は何だろうか。

 「私には祖国があるということ。そして、民族の自由と独立のために闘った、金日成主席への熱い感謝の気持ちでしょうか。それは亡国の民として、夕張炭鉱で危うく命拾いした父が、どんなに苦しい時でも主席に思いを寄せ、希望ある未来を信じた気持ちと同じもの。子どもや孫たちにもそれを忘れてはならないと常日頃言い聞かせている」

 77年、孫さんは念願叶って、女性同盟結成30周年祝賀代表団のメンバーとして祖国を訪問し、金日成主席と会見した。

 「思い出すたびに涙が止めどなく出てくる。主席の懐の温かさに包まれて、幸福感でいっぱいだった」と振り返る。これまで5回の祖国訪問と主席との会見の機会を得た孫さん。

 「主席は、私たちと会うたびに女性は歴史と社会の主人公であるといつも励ましてくれた。封建時代の女性は外に出歩けなかったが、現在は堂々と自分のやりたいことができる時代。いま、日本当局による制裁措置や人権侵害で在日同胞は苦境に陥っているが、決してひるまず、女性たちが祖国統一と真の女性解放をめざして力強く闘ってほしいと願っている」

 竹のようなしなやかさが運動の第一線で長く踏ん張ってきた秘訣かもしれない。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.1.20]