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〈朝鮮通信使来聘400年−1−〉 家康の執念・国交回復

豊かな文化遺産、日本にもたらす

 今年は朝鮮通信使来聘400年の記念すべき年である。1607(慶長12)年から1811(文化8)年におよぶ朝鮮通信使の来聘は、江戸時代の朝・日関係を多彩にしたばかりでなく、日本と朝鮮の友好往来に画期的な成果をもたらした。少ない時でも300人(第3次)、多い時には500人(第8次)にものぼったその使節団は、幕府、各藩、知識人のみならず民衆とも交流した。岡山県牛窓町の唐(韓)子踊り、三重県津市の唐(韓)人踊りなどは、そうした交流とそのすそ野の広がりを如実に物語るものであり、数多くの通信使行列絵巻などもまたその親善のあかしとして貴重である。朝鮮王朝と江戸日本の姿、その交流の260年間のリアルな歴史をどう生かしていくのか、これからの課題である。このシリーズでは、近年、少しずつ光が当てられつつある朝鮮通信使が日本にもたらしたおびただしい文化遺産を政治、学問、文化、経済的に振り返ってみることにする。

 朝鮮王朝と江戸日本の交流は、2000年の両国の歴史の中で、おそらく最も中身の濃い交流であり、最も良好な友好関係にあったと思われる。

 歴史学者の旗田巍氏は次のように記している。

姜(1567〜1618)。豊臣秀吉の朝鮮侵略で囚われの身となった3年間、江戸儒学の開祖・藤原惺窩が彼から教えを受けるなど、日本の思想史に大きな影響を与えた

 「かつて江戸時代には、日本は朝鮮を尊敬し、朝鮮との修交につとめていた。当時の指導的知識層であった儒者は、朝鮮の朱子学を学び、これを武士に教えた。朝鮮人あるいはその子孫で諸大名の藩校の師となったものも少なくない。…当時の日本は朝鮮を先進国と考え、これに敬意を表していた」

 豊臣秀吉の無謀な朝鮮侵略は、李舜臣将軍をはじめとする朝鮮軍や民衆の果敢な抵抗によって敗北したが、徳川家康は敗戦による日本の国際的孤立化に危機感をつのらせていた。

 明との国交回復のために、島津義弘(1600年)、琉球王(1602、1610、1613年)を通して働きかけを行った。朝鮮国を介しての働きかけは、朝鮮国から「直にやりなさい」と言われて成功しなかった。

 朝鮮との国交回復のために、家康は小西行長と宗義智氏を15回も訪朝(1599〜1607年)させている。朝鮮側に誠意を示すために、7回(1599〜1606年)にわたり、連れて来られた朝鮮人俘虜を帰している。また学者の姜や金光を帰国させて、日本との講和に応じるように働きかけている。金光には、もしいつまでも講和しないと、日本軍がもう一度攻めてくるかもしれないと、暗に脅しもかけている。

 このような家康の熱心な働きかけに、宣祖王は大いに悩む。憎んでも憎みきれない倭奴と講和するなどとても考えられない。さりとて戦乱は事前に防がなければならない。

徳川家康像

 そこでとりあえず、敵情視察も兼ねて、非公式に松雲大師(秀吉軍を打ち破った妙香山の西山大師の愛弟子)を対馬に送った。

 松雲大師はすでに60歳の老人であったが、僧兵を引き連れて戦った義兵大将として日本軍に知られていた。特に加藤清正との談判で、その勇名を内外にはせていた。

 清正「貴国の宝は何ぞや?」

 松雲「貴公の首級である」

 清正「王子を使節とし日本に送らないと、大軍で押し寄せるが如何に」

 松雲「勝敗は戦ってみなければわからない。我軍が敗れることは考えない」

 一部始終は「朝鮮実禄」に詳しいが、清正は松雲の堂々たる態度に敬意を表して、秀吉に4回の会談の様子を報告している。

 その松雲が対馬に入った。すぐさま徳川家康の知るところとなり、ついに伏見城で家康と松雲の講和会談が行われた。1605年のことである。すでに合意が成立した明は朝鮮の対日政策に対して、「声教自由((外交的自主権のこと)の国・朝鮮が決めること」と、干渉しなかった。

 日本は朝鮮との国交正常化を果たすことによって、明を中心とする国際秩序に復帰して、平和的な関係づくりに一応の成功を収めることができた。同時に徳川政権はその権威を外交的成功によって高めることになった。

 朝鮮王朝と徳川日本は、対等な関係である通信国関係を成立させる。

 外交の窓口は釜山東莱と対馬が担当し、朝鮮から江戸に向けて通信使が行くことになる。

 日本側の強い要望にもかかわらず、日本通信使のソウル行きは朝鮮側から許されなかった。(金宗鎭・在日本朝鮮社会科学者協会東海支部会長)

[朝鮮新報 2007.1.26]