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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち−17〉 舞踊家 崔承喜(上)

 崔承喜は、朝鮮の伝統舞踊を独創的にアレンジし、現代朝鮮民族舞踊発展の基礎作りに寄与した女性である。

 1911年、彼女はソウルの裕福な両班の家庭に、4人きょうだいの末っ子として生まれた。聡明で勝気な性格であった彼女は小学校を二度も飛び級して卒業、淑明女子高等普通学校に進学する。しかし、植民化が進むとともに家は急速に没落。実際、女学校どころではなかったが、優秀な成績で奨学生となり無事卒業を果たした。卒業後は母校の援助により東京の音楽学校への留学が決まっていたが、年齢が満たず入学は留保された。それではと教員をめざしてソウルの師範学校を受験するが、ここでも年齢不足のため入学が留保となってしまった。

舞踊との出会い

 こうした折、石井漠舞踊団のソウル公演の知らせと「団員募集」の広告に目を止めた兄、承一が、落ち込んでいた彼女に舞踊家への道を勧める。日本大学文学部出身で、当時、京城放送局文芸部に勤めながら新劇活動をしていた承一は、彼女の持って生まれた芸術的才能に大きな期待をかけていた。

 兄と一緒に初めて見たモダンバレエの舞台、それは「舞台芸術で自分の心を表現してみたいという激しい衝動に駆られた」瞬間であった。

 公演が終わるや彼女は入団を決意、二日後には東京に向け出発した。

 舞踊といえば酒場で妓生が嗜むこと、としか考えられていなかった時代である。彼女の日本への留学をめぐっては、暮らしのために娘を売ったという噂が流れ、母校では彼女を名簿から除名しようとする動きまであった。兄からの手紙を手にした彼女は、古い考えにとらわれた人々の誤解に傷ついたが、「朝鮮に生まれた者の中で、今まで誰一人舞踊を志した人がいない。自分は朝鮮を代表して、郷土の伝統や風物を生かした舞踊を創造しなければならない」との思いがふつふつと湧きあがり、必ず立派な舞踊家になってみせるとの覚悟を固め、レッスンに励んだ。

研究所の設立

 すばらしい天性の才能と熱い情熱で、彼女はたちまちその頭角を現した。

 1927年10月、石井舞踊団の朝鮮での第2回公演がソウルで行われた際、彼女はソロで小品「セレナーデ」を踊り、「朝鮮の花」と賞賛された。そして「天賦の姿態と洗練された表現力で観客を圧倒」し、追加公演まで行われた。

 1929年10月、18歳の彼女は石井から独立して、ソウルに崔承喜舞踊研究所を設立、管理業務を父が、マネージャーは兄が受け持った。そして集まった15人の研究生を特訓し、翌年の2月、第1回舞踊発表会を行った。地方公演も行われ発表会は成功したかと思われたが、世評では、独創性にかけ、石井の舞踊を模倣したにすぎないと、その評価はあまり思わしくなかった。それに、経済的困窮が日増しに深まり研究所の運営は苦しくなるばかりで、精神的にも追い詰められていった。

閉鎖、再デビュー

 1931年、20歳になった彼女は兄の紹介で、ある男性と出会う。早稲田大学に在学する22歳の文学青年、安漠(後の安弼承)である。彼は「カップ(朝鮮プロレタリア芸術同盟)」に加わり、文学評論方面で鋭い筆鋒を振るっていた人物であった。文学ばかりでなく芸術全般についても博識で舞踊にも理解を示す彼と意気投合、5月には結婚した。しかし、新婚生活間もないこの年の9月、朝鮮独立を煽動したという理由で安漠は警察に連行される。

 夫が獄中生活をする間、彼女は挫折するのではなく、むしろ自分の魂を積極的に作品に吹き込んでいった。朝鮮人民の抵抗を形象化した「解放を求める人々」「故郷を偲ぶ群れ」「苦難の道」などがそれである。

 1932年、夫は釈放されたが彼の逮捕以来観客は減少し、研究所の維持はますます困難になっていった。身重な体で彼女は公演を続けた。7月には長女、勝子(男の子に劣らないようにと命名)を出産したが、自身肋膜炎にかかり、ついに研究所を解散する。

 翌年の3月、彼女は娘の勝子(のちの安聖姫)を連れて東京に出た。再起を賭け石井への弟子入りを懇願しての渡日であった。妊娠、出産という2年間の空白を埋めようと、寝食を忘れてレッスンに励んだ。彼女の絶え間ない努力と創作活動を見守っていた石井から、新作舞踊発表会の開催許可が下りた。

 彼女の第1回新作舞踊発表会を二日後に控えた1934年5月20日、彼女に思いがけないチャンスが訪れる。この日開催される予定の「令女会」主催の女流舞踊大会で、出演者が急性肋膜炎で倒れ、その代役として彼女が抜擢されたのだ。彼女は発表会に向けて、伝統舞踊とチャンゴの名手、韓成俊から14日間レッスンを受け、それを下地にして創作した「エヘヤ・ノアラ」と「エレジイ」を、女流舞踊大会で披露した。「エヘヤ・ノアラ」は、伝統舞踊をベースに、父が酔ってご機嫌になると踊るクッコリ踊りを取り入れた、彼女独自の創作舞踊であった。翌日の新聞には「恐るべき新進現る」と記された。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

※崔承喜(1911〜1969)。淑明女高普卒業後渡日、石井獏舞踊研究所に入団。ソウルに崔承喜舞踊研究所を設立するが経営不振により閉鎖、再び石井舞踊団に入団。その後「コリアン・ダンサー崔承喜」として米国、ヨーロッパ、中南米の各地で公演し名を馳せる。解放後平壌に崔承喜舞踊研究所を設立、後進の育成、舞踊の理論化に寄与。

[朝鮮新報 2007.2.3]