top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 裸一貫、異国で事業を切り開いた−宋斗満さん

厳しい時代こそ団結が力の泉

 「光陰矢のごとし」。齢80の峠を越えた今、走馬灯のように脳裏をよぎるのは、故郷・済州島旧厳里の佇まいである。前方には温かな陽光を受けてキラキラと波打つ朝鮮南海が広がり、後方には、漢拏山の秀麗な山容が目を潤してくれる。

 1926年12月30日、日本の植民地支配が絶頂期を迎える頃、宋斗満さんは、7人兄妹の次男として、誕生した。暮らしは貧しかったが、実直な父のおかげで、6歳で書堂に上がり、「千字文」を学び、「論語」や「孔子論」「孟子論」などの勉学に勤しんだ。日本の皇民化教育が浸透すると、村の旧厳公立尋常小学校に6年間通うようになった。

 「全校生徒が集まり、宮城遥拝し、校長が教育勅語を読み上げる。徹底的に暗誦させられて、70年たったいまでも、その言葉が耳に染みついている」と宋さんは苦笑する。

皇民化政策の浸透

力強く語る宋さん

 行灯の火の下で学び続けた艱難辛苦。「人に言えない苦労をした」が、どんなときでも、勉学への強い意志を捨てることはなかった。小さな島でも秀才の呼び声が高かった宋さんは、すでに大阪で苦学生活を送っていた兄の影響もあり、39年、単身、東京に向かった。

 東京府下谷区(現・台東区下谷)の被服工場で働き始めた。朝早く起きて、工場の掃除をしたあと、登校、午後4時に下校し、また工場で夜10時まで働く日々。一方で、工場に毎日のように特高刑事が訪ねてきて、厳しい監視下に置かれていた。工場の休みは一カ月に2回、日給はわずか50銭だった。

 次第に日本の敗色が濃くなり、東京へのB29による来襲が激化、兄を頼って大阪に避難した。45年3月。すると大阪でも空襲を受け、焼け出されて散々な目に遭った。

 解放を迎えた喜びも束の間、8月20日頃から今度は兄と一緒に約2カ月間、三重県津の大同製鋼所で働くことに。米兵の捕虜たちと一緒に重いトロッコなどを引く奇異な体験をした。

祖国に帰国した娘一家とともに

 しかし、その後、予期せぬ悲劇に見舞われた。解放直後から一日2回、東京−大阪間を走っていた朝鮮人専用列車が46年7月、滋賀県・能登川駅付近で貨物列車と衝突。この事故で乗り合わせていた兄が帰らぬ人に。結婚し、愛娘の誕生をよろこんでいた兄の悲報は、今でも宋さんの胸に深い悲しみを沈殿させたままだ。

 茫然自失の中から、兄の遺志でもある勉学の継続を誓った。その頃、東京・神田共立講堂の集会で生まれて初めて聴いた「金日成将軍のうた」の力強く、清新な響きに勇気づけられた。「解放前から将軍の伝説的な活躍は聞いてはいたが、その歌声はまだ見ぬ将軍への憧れを抱かせてくれ、どんなに感激したかわからない」と宋さんはまるで昨日のことのように若やいだ表情で話した。

 48年4月、中央大学専門部法科に入学。時代は激しく動き、米の冷戦政策のもとで朝鮮半島の分断、日本の逆コースが始まっていた。朝学同(現・留学同)に加盟、学生運動に奔走する日々を送った。51年には経済学部に入り53年に卒業。朝鮮戦争の惨禍が伝えられるたびに胸がかきむしられるような辛い時期だった。同胞学生たちと祖国の平和、統一問題について夜を徹して語り合った。また、52年には、夫順玉さんと恋愛結婚。解放後の新青年らしく、式場には主席の肖像画と共和国国旗が掲げられていた。

多角経営を展開

孫たちから正月のあいさつを受けるのが夫妻のよろこびだ

 宋さんの商売のスタートは総連結成の年と同じ55年。上野・アメ横のガード下、「立花商会」の畳3畳のわずかな空間が原点だった。しかし、商売の才覚はすぐ花開いた。いち早く香港などから舶来品を輸入、数年の間に一財産を築き、のちの事業の礎を固めた。日本の経済環境が転換期を迎えるたびにその風を誰よりも早く察知して、事業の方向性を的確に変えていった。喫茶店、焼肉、遊技店、カラオケなど多角経営に力を注ぎ、今、2人の息子が父の開拓した路線を引き継いでいる。

 宋さんの座右の銘は「祖国を守り、同胞同士団結して、相互扶助すること」である。祖国を奪われた世代の過酷な体験と解放後、組織の旗の下でたくましく闘い抜いてきた実績が、この言葉にいっそうの光彩を放つ。台東商工会理事長、東京都商工会会長、連合会副会長とどんなに肩書きが増えても、おごらず「ひたすら同胞商工人たちの権利を守るため活動し、その絆を強めるために」心血を注いできた。宋さんにとって、組織と同胞コミュニティーこそ、人生のすべてであり、苦楽を分かち、自らを鍛え、成長させてくれた何にも代えがたい宝なのである。

 商売は単なる金儲けではないとも語る。裸一貫、異国で商売を起こし、学校を建て、民族精神を守り抜いた力の源。その汲めども尽きぬ泉こそ、民族のアイデンティティーなのだと。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2007.2.9]